四日市をテニスの町として有名に!
(齋田 悟司 選手/車いすテニス/三重県四日市市出身 千葉県柏市在住)
JTBグループでは、パラスポーツの発展とともに、地域を元気にするアスリートを応援していきます。
今回は、日本の車いすテニスのパイオニアで、パラリンピック6回出場の齋田悟司選手にアスリートとしての地域の環境と魅力を語っていただきました。
写真撮影:Norihiko Okimura
「仕方なく」がテニスを始めたきっかけ
僕はもともと車いすバスケットボールをやっていて、その練習場に車いすテニスの方が講習に来られたんです。
そうしたら、チームメイトがみんなテニスに転向してチームがなくなっちゃったから、仕方なくじゃあ僕もテニスをやりますと(笑)。
それがテニスを始めたきっかけでしたね。
チームの人たちがテニスに行った理由は、僕の親世代くらいの方が多くて、きっと何十年も車いすバスケットボールをやられてきて、新しいことをやりたいという思いもあったでしょう。
あと車いすバスケットボールは、人数を集めないと試合ができないんですよね。
でもテニスだと、コートがあって二人いればできる。
相手が健常者でもできるということで、人数にとらわれないことが良かったんじゃないかなと思います。
僕も、実際にテニスをやってみると非常に難しくて、やっていくうちに楽しさも分かってきたんです。
写真撮影:Norihiko Okimura
ジュニアのトップ選手との出会いが、良い刺激と思い出に
以前は四日市市役所で、フルタイムで働いていたので、水曜日の仕事の後と土日におもに練習していました。
まだ車いすテニスが世間に広まっていなくて、スポーツとして見てもらうことが難しく、なかなか指導していただける方もいなかったんです。
でもあるコーチと出会って相談したところ、じゃあうちのテニスクラブに来てみない、と声をかけていただいて。
その方も車いすの選手に教えるのは初めてだったと思います。
でもさっぱりした方で、「できないことはできないとはっきり言うし、無理なことは無理と言いますよ。その辺は一般の人と同じようにやらせてもらいます」と。
言い方は厳しかったですが、一選手として認めてもらえたのかなと思って、すごくうれしかったですね。
写真撮影:Norihiko Okimura
当時、日本で上位にきていて、96年のアトランタパラリンピックに出場するという目標を持って、それを叶えるためにステップアップしたいと模索していたところでした。
そんな時にコーチに出会って、アトランタが終わるまで指導をお願いすることになりました。
そこはジュニアが強いクラブだったので、彼らの練習風景や取り組む姿勢を見て、時には一緒に練習もして、良い刺激を受けましたね。
またテニスを通じていろいろな話もできましたし、なかには夏休みの作文で自分のことを書いてくれた子もいて、良い出会いができたなと(笑)。
その時、出会った小学生・中学生が、プロになって、日本代表になって、引退してまたコーチとして新しい選手を育てているのを見ると、長くテニスに携わってきて良かったなって思います。
写真撮影:Norihiko Okimura
プロとして生活できる条件が揃った千葉に移住
四日市市役所を退職して、プロとしてやっていきたいと思ったときに、まず思いだけではできないですよね。
生活をしていくことが大事なので。
その時は、OXエンジニアリングという車いすの会社が、競技中心の生活の第一歩を支えてくださったんです。
また吉田記念テニス研修センター(千葉県柏市)は、トレーニング施設があって常駐のトレーナーがいて、テニスコーチも何十人といる素晴らしい環境でしたから、テニスをするならここでという気持ちは前から持っていたんです。
それで、OXエンジニアリングも千葉県の会社だったということもあって、千葉に移り住むことになったんです。
安心してテニスに打ち込める環境を作っていただける、会社であったりテニスクラブであったり、また周りの家族であったり、いろいろな人たちの協力があって、初めてテニスに専念できます。
自分を応援してくれる人がたくさんいることが、自分にとってはすごい財産であるし、それがなかったら続けてこられなかったと思います。
長くテニスをしていくには、自分自身が競技を続けていくことが第一ではありますけども、それを支えてくださる方たちがたくさんいるということを念頭に置いて、感謝の気持ちを忘れないことが大事かなと思います。
写真撮影:Norihiko Okimura
名物を名古屋に取られそうで心配!?
実は現在、僕は四日市市の観光大使もやっているんです。
四日市の名物と言えば、豚肉を甘辛く焼いたトンテキです。
小さい頃から身近にあってすごくおいしいんです。
でも最近それが名古屋に取られそうで心配しているんです(笑)。
トンテキのお店も名古屋の方が多いらしくて。でも発祥は四日市です!
三重の北にある四日市は、味噌も赤味噌で名古屋の影響があるんですけども、南の方は関西の食文化なんですよね。
今年、市内に「霞ケ浦テニスコート」という素晴らしいテニスコートがオープンしました。
屋根付コートだけでも8面もある、かなり力を入れた施設で、ぜひ自分も使わせていただきたいと思っています。
四日市市はテニスにすごく力を入れているので、そういった点でも全国的に有名になってほしいなと思っているんです。
写真撮影:Norihiko Okimura
パラリンピックでしか味わえない感動
僕の最終目標は常にパラリンピックです。
グランドスラムとかいろいろな大会がありますが、パラリンピックは4年に1回の戦いで、海外の選手もパラリンピックで勝ちたいという思いがすごく強いです。
みんなそこに向けて頑張ってくるので、勝つのは難しいんですよね。
でも難しいことにチャレンジして、頑張って頑張って良い結果が出れば、頑張った分の達成感が味わえる。
それを何度か味わっているので(笑)、次もやりたいという気持ちになるんです。
写真撮影:Norihiko Okimura
2020年のパラリンピックに向けて、もう6回も出ているからベテランだろうとよく言われますが、年齢も重ねていますし、若い選手もどんどん出てきて、日本代表になるのがすごく難しくなってきています。
まずは日本代表になること、7回目のパラリンピック出場が、今の一番の目標です。
経験など有利な部分もありますが、体力面は強化していかないといけないので、トレーナーさんの力を借りて、体力を向上させたいと思っています。
また車いすの進歩によって、プレースタイルもどんどん変わってきているんです。
それに対応するというよりも、自分がリードしていけるくらい、新しい戦略や戦術を身につけてやっていきたいと思っています。
4年間、本当に苦しい時間の方が多いですが、目標を達成した時は、パラリンピックでしか味わえない気持ちや感動があるんです。
テニスを続けていくからには、パラリンピックを最大の目標として取り組んでいきます。
PROFILE
齋田 悟司(さいだ さとし)
1972年3月26日 三重県四日市市生まれ 千葉県柏市在住
野球少年だった12歳のとき、病気のため左足を切断。
その後車いすバスケットボールをしていたが、14歳のとき、三重県で開かれた講習会に参加したことをきっかけに車いすテニスを始める。
1996年、アトランタパラリンピックに初出場。
2000年のシドニーパラリンピックでは8位入賞。
2002年にはジャパンオープン優勝。
2003年、日本人選手としては初めて国際テニス連盟が選出する世界車いすテニスプレイヤー賞を受賞した。
2004年のアテネパラリンピックでは国枝慎吾と組み、男子ダブルス優勝。
2008年の北京パラリンピックでは男子ダブルス銅メダルを獲得。
6大会連続出場となった2016年リオパラリンピックでは銅メダルを獲得した。