陸上仲間に出会えた大阪での学生生活
(山本 篤 選手/走り幅跳び/静岡県掛川市出身 大阪府在住)
JTBグループでは、パラスポーツの発展とともに、地域を元気にするアスリートを応援していきます。
今回は、日本人の義足アスリート初の、パラリンピック・メダリストである山本 篤選手にアスリートとしての地域の環境と魅力を語っていただきました。
写真撮影:Norihiko Okimura
足を失ってもできることはたくさんある
小学生の時はスキーをやっていて、中学生の時にスノーボード・ブームが来たんです。
当時、僕が思っていたのは、スキーはダサい! スノーボードはカッコイイ! みたいな(笑)。
それで、同じ雪の上でやるスポーツだったら格好良い方がいいなと。
スノーボードはシンプルに楽しかった。
だんだんスピードを出せるようになって、ジャンプができるようになって。スキーとも違う感じがありました。
高校2年の時に事故でケガをして、最初にひざ下を切断して、1週間空けてひざ上を切断したんですけど、その間が辛かったですね。
悩んで悩んで悩んで最終的に出た答えは、もう足がないことは変わりない。
じゃあこの状態で何がしたいかと考えたら、やっぱりスノーボードがしたい、スポーツがしたいと思って。
それで2回目の手術の直前、これから手術室に入るっていうタイミングでドクターに聞きました。
足を切ってもスノーボードできますかって。すると「分からない」と。でも「できない」じゃなかったから良かったんですよね。
ドクターは、スノーボードは分からないけど、スキーできるよとかバイク乗れるよとか、できることをいっぱい提案してくれたんです。
写真撮影:Norihiko Okimura
“遊び”が縮めた同級生との距離
その後、病院の運動会で競技用の義足に出会ったんです。
ブレードタイプの板バネは、すごく軽くて走りやすくて。
それで冬はスノボしているけど、夏にやるスポーツないなっていうのもあって、陸上をやってみようと。
大阪体育大学に入って、はじめは男子の練習に加わっていたんですが、どうしても遅れてしまって、僕のモチベーションも上がらなくて。
それで女子のタイムを見たら同じくらいだったので、女子と一緒に練習することにしたんです。
最初は女子の中に入るのに抵抗がありましたが、そんなプライドは不要だと思って。
結果的には、お互い相手には負けたくないと、すごく良い刺激になったと思います。
練習が休みの時は、難波とか関空の辺りに遊びに行くことが多かったです。
でも僕は専門学校に行っていたので3年遅れで大学に入学して、最初は周りと距離があったんです。
それが夏休みになったら、僕の車で一緒に出掛けるようになって距離が縮まって。
専門学校時代に年上の人に教えてもらった遊びを、今度は僕が大学でみんなに教えたりして。
おかげで遊ぶのが好きな学年になりましたね(笑)。
大学周辺では、熊取駅の「リュ ド ラ ガール」っていうフランス料理屋が、めっちゃ好きなんですよ。
日本食では味わえないようなハーブの料理があって。そこはぜひ行ってほしいですね。
写真撮影:Norihiko Okimura
写真撮影:Norihiko Okimura
地元の人たちに競技をする姿を見てもらえる喜び
大学卒業後は大学院に行こうかと思っていたんですが、親の知り合いの方の紹介でスズキの試験を受けて、入ることができました。
地元(静岡県)の会社で競技をやることは、自分としてはすごくうれしくて。いろいろな人が僕の姿を見て、少しでも前向きな気持ちになってくれたらいいなって思っていて、その場が地元企業というのは、ものすごくラッキーというかハッピーでしたね。
地元での思い出で一番印象に残っているのは、何年か前に掛川に支援学校ができて、陸上競技の教室に行かせていただいたんです。
その時、ちょうどリオの前で壮行会をしてくれたんですけど、サプライズで母校の掛川西高校の応援団の子とかが来てくれたんです。
壮行会があるのは知っていたんですが、どんな形でやるのかは全然知らなかったので、そこで応援してくれたのはすごくうれしかったですね。
写真撮影:Norihiko Okimura
パラ・オリが合体したイギリスの試合は、盛り上がりも最高!
ロンドンのオリンピックパークスタジアムは、いつ行っても最高です。
観客の入りがものすごくいいんですよ。
イギリスの陸上競技連盟は、パラとオリをマッチングさせた活動をしているんです。
ウサイン・ボルトと同じレースに僕らが出たり、イギリスの選手が強いパラ種目をピックアップして、海外の選手を招待して試合をしたり。
その時は、渡航費もタダ、滞在費もタダ、プラス賞金まであるんです。
イギリスの人たちは、ロンドンパラリンピックの良いイメージがあるから、すごく盛り上がるんですよ。
競技者として、お客さんがたくさん入ってくれた方が断然いいので、やっぱり2020年の東京大会は、お客さんを呼ぶのはマストですよね。
本当は、自分が何万人もお客さんを呼べるくらいの選手にならないといけないと思っています。
なのでメディアに載って知ってもらうために、出演依頼はなるべく断らないようにしています。
写真撮影:Norihiko Okimura
体育の授業に義足で参加できるようなサポートを
この間、初めて大阪で「出張ギソクの図書館*」をやれたのですが、足を失った子やその親御さんたちの交流の場にもなってすごくよかったので、全国展開できたらいいですね。
僕自身が陸上をやったことで、すごくポジティブになったし世界観が変わったので、義足になってしまった人たちに走れることを伝えて、人生の幅を広げてもらいたいと思っています。
義務教育で体育がありますが、日常用の義足で走るのは非常に難しいんです。
なので義務教育中は、競技用の義足や義手も国として補償対象に認めてほしい。
授業を受けられないってすごく悔しいんですよね。
でも競技用の義足を持っている子たちは「マラソン大会で走りました」とか「去年より速く走れました」って。
やっぱりそういう機会があるとないでは全然違うんです。
走るのが速い遅いは関係なくて、一緒にやることが大事。
競技用の義足を着ければ授業や運動会に出られるなら、値段は高いかもしれないけど、それは義務教育なんだから支給しましょうと。
“義務”教育と言っているんだから、その責任を果たしてよと(笑)。
*2017年東京・新豊洲にオープンした、競技用義足を試し履きできる施設。
2018年に山本選手の主導により大阪への出張が実現した。
写真撮影:Norihiko Okimura
写真撮影:Norihiko Okimura
義足での踏切が一番の見どころ
走り幅跳びの一番の見どころは、やっぱり踏切ですね。
僕たちは義足で踏み切るので、そこを見てほしいです。
板バネがぐわっとたわんで、バーンと跳ねる。
バネのパワーと一緒に体を前に出すことで、より前に飛んでいくようなジャンプができるんです。
そういうところは、見てほしいですね。
今の課題は、短距離のスピードアップです。
短距離のスピードが出ると、幅跳びの助走にもつながります。
2019年はドバイで世界選手権があるので、そこである程度の結果を残せば、東京大会の参加枠を取れると思うので、枠を取りに行きたいと思っています。
2020年は、金メダルを取って子どもと一緒にウィニングランをするのが今の最大の目標です。
これができたら最高ですね。
写真撮影:Norihiko Okimura
PROFILE
山本 篤(やまもと あつし)
1982年4月19日 静岡県掛川市生まれ
高校2年の春休みに起こしたバイク事故により、左足の大腿部を切断。
高校卒業後に進学した専門学校で競技用義足に出会い、陸上を始める。
本格的に競技をしようと、2004年に大阪体育大学体育学部に入学し、陸上部に所属。
2008年スズキ株式会社に入社。
北京パラリンピックから3大会連続出場。
2016年に当時の世界記録を更新。
リオ大会では走り幅跳びで銀メダル、4×100mリレーで銅メダルを獲得。
2020年東京パラリンピックで金メダルを目指し、2017年にプロ選手となる。
2018年3月に行われた平昌大会ではスノーボード競技で出場を実現。