JTB交流創造賞

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交流創造賞 一般体験部門

第15回 JTB交流創造賞 受賞作品

優秀賞

白枇杷の木の下から

山田 幸夫(旅先:静岡県)

定年退職してから、自転車旅を始めた。

日本各地を走り、今年の春は、富士山の絶景を眺めたくて、一ケ月の予定で伊豆、富士方面に向かった。

自転車で走るのは、爽快だけれど、そんなときばかりではない。自転車の前と後ろの左右に荷物をぶら下げて、なおかつ、前輪と後輪の上にも乗せている荷物の総重量は、ほぼ三十キロを超える。その重さが、向かい風、峠道では苦痛の元になる。苦しいとき、「なぜ、こんなことをしているのか。もっと楽な旅の仕方があるだろう」と弱音の虫が鳴く。「濃密な出会いは、ゆっくり走る自転車旅なのだ」と言い聞かせるのは、もうひとりの自分である。

どの土地へ行っても、地元の人は優しい。

ヘルメット、サングラス、日焼けした顔、腕、そんな風貌で自転車に乗ったひとり旅。気軽に声をかけやすいのだろう、話しかけてくれる人も多い。中には、「縁」を思わずにいられない出会いもある。その一つが今回の伊豆、富士の旅だった。

五月の連休が終わるのを待って、大阪の自宅を出発した。紀伊半島は起伏のある海岸線が続く。伊勢から知多半島に渡り、静岡に入ってきたのは入梅前の五月末。

「すごいっ! 富士だ!……」

すごい、としか言えない。目の前に突然現れた富士山の姿に我を忘れ、あとは黙した。御前崎から三保の松原に向かう途中に、「大崩」と呼ばれる難所がある。その上りを汗だくで喘ぎながらペダルを踏みつけていた。峠で、顔を上げたとたん、霞んだ輪郭だけの富士が見えたのだ。尋常ではない興奮と昂りは、日本人の遺伝子がそうさせるとしか思えなかった。しばらく茫然と釘付けになった。

下りは快走だ。鉄道と並走し、下り切ったところは海上道路。休憩したとたん空腹に気がつく。駿河湾では、生しらす丼を食べずに通り過ぎるのは、もったいない。新鮮なしらすが、胃を刺激する。

空腹を満たし、ひたすら走っていると、そのまま三保の松原に吸い込まれていった。「鎌が崎」は、絵ハガキで見たとおりの絶景だ。三保の松原が、世界遺産登録から外れるとの話もあったが、登録されて当然だろうと思うほどの様相を呈している。富士の輪郭だけが青く浮き出ている。名付けるなら「青富士」とでも呼びたいと思った。

早朝の富士を観たい。その欲望に勝るものはなく、三保の民宿に泊まり、波を洗う静かな音とともに富士を眺めた。期待を裏切らず、何度眺めても飽きない悠久の風格がある。

清水港から伊豆土肥までの船旅中も、角度により微妙に姿を変える富士を存分に眺めた。一時間余りで、土肥港に着く。この日の宿泊地と決めていた港近くのキャンプ場。受付らしい小さい管理人室を覗くと、張り紙がしてある。「ご用の方は、こちらへ」の文字と略図。指定の場所へ行くと、おじさんがひとりいた。会社を定年退職してから、故郷の土肥へ戻って来て、キャンプ場を運営していると言う。キャンパーとの会話が楽しみなのだそうだ。

敷地には、何本もの枇杷の木があり、熟れた実がびっしり、ぶら下がっている。それを指さし、おじさんは矢継ぎ早に言った。

「ここの枇杷は、食べたい時に食べていいからね、洗濯機も自由に使っていいよ。・・・・・・コンビニは港にあるし、温泉は歩いて十分ほどね。台湾料理の食堂もあるよ。・・・・・・それにね、海に沈む夕陽も見事だよ」

丁寧な口調だった。「じゃ、何かあったら、連絡ください」と歩き出したものの、まだ言い足らないとばかりに、身体を振り向かせて、「この辺のものは、土肥白枇杷と言うけど、甘くておいしいよ。それにね、袋を掛けてないので、見てくれは悪いが陽光に当てているので甘味は濃厚だよ」

食べきれないほど、もぎとってくれた。丸いピンポン球状で、口に入れると柔らかい酸味が舌にのり、包み込むような甘さが口に広がる。二つ目の皮を剥いていると手がベタつくほど果汁が滲み出てきた。

キャンプサイトに生えた草は短く整えられている。テントを張り、夜を迎える準備を終えた。梅雨を迎える前の午後の柔らかい日差しを浴びながら、タオル一枚ぶら下げ、歩いて尾形銭湯温泉へ向かう。キャンプ場の前には海が広がっている。温泉旅館の浴衣を着てブラブラ散策している錯覚に陥るほどの風情だ。

温泉の受付では、愛想のよいおばあさんがいた。ここでも、話が弾んだ。土肥の人は皆、話し好きなのかと思ってしまう。

誰もいない湯船に身体を沈めると、「アアァーッ」自然と小さい息が漏れたが、そう広くない浴室全体に反響した。目を瞑って、夢の世界に入りかけた時、引き戸を開ける小さい音と、人が入って来る気配がしたので、その方に視線を向けると、身に着けていたのだろうと思われる半袖シャツと短パンの形が、真っ白に光っていた。逆に身体を太陽に晒していた部分は、黒光りしている。私の日焼けと同じ、それは明らかに、自転車か、徒歩か、どちらかの旅人だ。まさか地元の人ではない。

私は、声をかけた。案の定、彼は、歩き旅だと言った。

「千葉県から三島駅までは新幹線でやってきて、途中、電車やバスを併用しながら、徒歩で伊豆半島から富士周辺を旅している」と。年齢は、ほぼ私と同じだろう、彼は「甲斐」と名乗った。二人が意気投合するにはそれほど時間を要しなかった。温泉を出てからも話は続き、来た時と同じ砂浜を、肩を並べて歩き出した。

水平線に陽が沈んでいくところだった。夕陽が海面に近づくにつれて明るい色からオレンジ色に変化していく。時間とともに、空全体が茜色に染まっていくのだ。昇る朝陽も幻想的だが、この時の夕景の方が私は好きかもしれない。

二人は、同じ方向に向かっていた。別れるタイミングを計っていると、キャンプ場に着いてしまった。私のテントしかなかったはずなのに、二張り増えている。

管理人のおじさんが「今日は、お客さんが多いね」と、持ってきたビールとつまみらしきものを広げた。他にバイクで横浜から走ってきたという二人の男子大学生もいたのだ。

「出会いの縁を祝して、乾杯!」おじさんの大きな発声と、「このビールは、サービスだよ」の声が同時だった。

自転車、徒歩、バイク、それぞれ旅の手段は違うが、話は尽きなかった。キャンプ場ではよくあることだ。

大阪を出発して既に二週間を超えている。キャンプ場のおじさんの人柄に魅かれて、ここでゆっくりしたいと思っていた。

目覚めた早朝の温かいコーヒーは旨い。昨夜の四人と一緒に朝から温泉へ行くのも優雅な気分である。風呂上がりの牛乳を飲みながら、ブラブラと砂浜を歩くと、浜風が肌に触れるのが嬉しい。海を眺めながら話していると、すぐ一日が過ぎた。

大きな夕陽が水平線に沈んでいく。

※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。

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