熊倉 省三(旅先:タイ)
古書店で見つけた、昭和一七(一九四二)年の雑誌『歴史日本』には、こう書かれてあった。「タイ国、以前の逞羅(シャム)国において活躍した日本婦人として、近頃有名なのは、「フォルコン(一般に「フォールコン」と呼ばれている)の妻と称される婦人である」
彼女は、いったいどんな女性だったのだろう。彼女の夫であるフォールコンというのは、およそ三〇〇年前、アユタヤ王朝のナライ王の宮廷に入り、高官として活躍したギリシア人である。
フォールコンは、天主教の宣教師のすすめで、天主教徒の美しい日本人少女と結婚したという。彼女の家庭は、江戸幕府の天主教禁制のため、難を逃れてタイに移住してきたのである。彼女は、「出自がはっきりしており、教養があり、精神の美しい少女」であったから、フォールコンは喜んで迎えた。と、記されている。
しかし、彼女の名前、年齢、日本のどこからやって来たのかなど、くわしいことは何一つ書かれていなかった。
天主教とは、切支丹のことである。江戸時代、タイに逃れてきた、身分のある切支丹の少女とは、どんな女性であったのだろう。「精神の美しい少女」とは、どういうことなのだろうか。
青シャツは、ちょうど一時間後、ホテルの前で待っていた。タイの人にはめずらしく時間に正確である。
旧市街は小さく、青シャツの話では、徒歩でもじゅうぶん歩き回れる広さである。
ぼくは、新市街にホテルをとったことを後悔し、次の日からは、ホテルを旧市街に移そうと決めた。
「旧市街に安全なホテルはないだろうか」。青シャツが案内してくれたのは、アユタヤ王朝のナライ王が生涯をかけて築いたという宮殿の前のホテルである。
町を歩き、ガイドブックにあるフォールコン住居跡に行った。
崩れかかった小さな門を入ると、目にまぶしい鮮やかな緑の芝生の中に、崩れかかった赤煉瓦の壁面がそびえる。屋根のない赤煉瓦の壁面には、ア―チ状の石段が残っていて、ここからフォールコンと妻の「日本婦人」は出入りしていたのだろうか。石段に座って、彼女のことを考えた。
「精神の美しい少女」は、結婚し、さらに夫が亡くなってからは、「貞節を守った」ことで知られている。彼女の話は、はじめに紹介した雑誌『歴史日本』に、もう少しくわしく書かれている。
フォールコンの妻は、夫の死後、新しく即位した王に言い寄られたが、これに頑として応じなかった。すると王は、彼女にでっち上げた横領罪を着せ、拷問にかけ、財産を没収。
そして親戚や子女の何人かが殺されたが、幸い彼女自身はフランス士官によって助けられ、残された子とともにバンコクへ逃れた。新王は彼女の引き渡しを強制し、アユタヤに連れ戻した。
彼女は死を覚悟したが、予想に反して宮廷大膳職の女官頭を命ぜられた。彼女は宮廷に仕えたが、報酬などは一切国に返納したという。
そして雑誌ではこう結んでいる。「彼女のもつ心構へ、精神即ち日本女性の美徳のもたらしたものである」
雑誌『歴史日本』では、フォールコンの妻を日本人であると決めつけ、戦前のことで、日本人の「海外雄飛」が話題になっていたこともあるのだろう、「海外で活躍した日本人の一人」として評価する。
ここロッブリーに来てみれば、彼女のことがもっとわかるかも知れないと思った。彼女の肖像なども見たかった。
しかし、邸宅跡には、フォールコンの簡単な英文の説明パネルがあるだけで、彼女については一行の説明もなかった。
翌日、ナライ王の宮殿跡の「ロッブリー国立博物館」にも行ってみた。
ここにはフランス使節団が王に献上した「ルイ一四世から贈られた鏡」や王の遺品などが展示されていたが、彼女のことはおろか、フォールコンについても何もなかった。
係の人にたずねたが、フォールコンについては、邸宅跡が残っているだけだという話だった。
ぼくの「フォールコンの妻」の足跡さがしは、これですっかり行き詰まってしまった。
昼間の太陽はすっかり燃えつきロッブリー川からやってくるさわやかな風が、火照った肌に気持ちよくなごんだ。
夕方になると、旧市街のメインストリートには、日本の縁日のような、さまざまな屋台が並ぶ。
そのほとんどが麺類や菓子類、あるいは夕食のための屋台だが、ようやっとウイスキーを置いてある屋台を見つけた。
ウイスキーといってもおそらく、米や砂糖黍を原料にした蒸留酒、焼酎の一種である。
これを、ほのかに甘いソーダで割ると、さわやかなカクテルになる。ウイスキーの名は、「センティップ」。日本人には「メコン」がよく知られているが、タイの人は好んでこのウイスキーを飲む。「ヤム・ウンセン(春雨のサラダ)を肴に気持ちのよいウイスキーを飲んでいると、あの青シャツが声をかけてきた。ホテルで客を降ろしたところだという。
ウイスキーをすすめると、仕事中だからといって断った。ぼくは彼にペプシコーラを頼んだ。ぼくは、青シャツにフォールコンの妻のことを聞こうとしたが、やめた。
ぼくたちは、日本で人気のある車だとか、タクシーの料金の比較だとか、日本にあるタイ料理店の話や日本の米をどう思うといった、たわいない話で盛り上がった。
ぼくは、気持ちよく酔った。屋台の勘定をすませて、ホテルに帰ろうとすると、青シャツは、自分のサムローでホテルまで送っていくという。
ぼくは、ホテルまで歩いても五分ほどだからといって断ったが、青シャツは、自分も帰り道だから、ぜひ乗っていってほしいという。
ホテルに着くと、ぼくは、青シャツを無理に誘い、宮殿の城壁が見える食堂で、一緒にビールを飲んだ。サムローは、ホテルで預かってもらうことにした。
城壁は、銃眼付きのいかめしい構えだが、城壁の内側からはこの銃眼を隠すように、日本の桜に似た花が咲きこぼれていた。
おそらく、バンコクでもよく見かけるインタンニの樹の花である。ほのかな薄紅の花びらの純情さは、日本の桜を思わせる。
青シャツはよく飲んだ。ぼくと同じように気持ちよく酔ってきた。ぼくは、これといった意図もなく、近頃、商売はどうだい?と、かるく聞いた。
すると青シャツは話し出した。意訳もあるがこんな話だった。
タイは不景気でね、昔はそんなヤツはいなかったけど、この間、乗り逃げされたんだ。五十バーツだけど、腹が立ってそいつを追いかけ、家に乗り込んだ。
そうしたら、小学生ぐらいかな、女の子がひとり家の中で造花の内職をやっているんだよ。親父はどこだと、怒鳴ろうとしたんだけれど、言えないよな。
それにその子は、今、明日の学校の昼食代十バーツあるから、今日はこれで、残りは明日にしてくださいというんだ。それも受け取れないよな。
オレにも小学生の子どもがいるからさ、かわいそうになって十バーツ置いてきたんだよ。そうしたら、翌日、彼女は、オレのところに十バーツ持ってきたんだよ。受け取れないよな。だからまた、十バーツあげたんだよ。
ぼくは、それじゃあ、七十バーツの損じゃないかといった。
すると青シャツは、城壁の桜を見ながら、彼女が気持ちよければ、オレも気持ちいいんだよ、といってグラスに自分で残りのビールを注いだ。
青シャツはあまり、酒には強くないようで、飲み進むうちに、椅子に寄りかかって眠ってしまったようである。
ぼくは、城壁の「桜の花」を眺めながら「美しい精神」を考えていた。
フォールコンの妻は、おそらくは日本人二世か三世で、伝わる話の真偽のほどはわからないが、ぼくはもう、そんなことはどうでもよかった。
それよりも、青シャツと、けなげな少女とのたわいのない、心なごむ話に酔っていた。
「美しい精神」というのは、そんな大仰なことではなく、旅の中では、どこにでも出会うことができるのだなあと、ひとりごちて、城壁の「桜の花」をぼんやりと眺めていた。
桜を愛でながら、ぼくは日本人夫人のことを考えていた。そうして、眠っている青シャツにお礼の気持ちを込めて、小さく歌った。
「さくら さくら 弥生の空は」
団塊世代の筆者は「ジジイ心を満たす旅」をしようとタイのロッブリーを訪れる。現地では青シャツのサムロー運転手の案内で、以前からに気になっていた「フォールコンの妻」の足跡をたどる旅をしていく。夕食で立ち寄った屋台で、青シャツの運転手と再会し、酒を酌み交わしながらたわいもない話で交流を深める。「フォールコンの妻」の話に語られる女性と「美しい精神」については、結局わからずじまいであったが、青シャツの運転手との話に垣間見た「美しい精神」にジジイ心は満たされていく。
・旅や交流に積極的でアクティブな世代感が表現されており、また筆者の個性も感じられるストーリーが印象的である。
・登場人物のキャラクターの描写が秀逸で、彼らの心温まる交流と結末が素晴らしい、読後感も気持ち良い。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。