熊倉 省三(旅先:タイ)
タイのロッブリーでバスを降りた日本人は、ぼく一人であった。
ここには、タイの首都バンコクにあるような繁華な街並みもなく、極彩で飾った不夜の店々もないと思われる。
しかし、男のひとり旅にとって、この静かでのんびりとした街のたたずまいは、なによりのご馳走である。
ぼくは、いわゆる団塊と呼ばれる世代で「ジジイ」といわれることもある。
何も予定のない日々ができたので、ひとり旅を楽しむことにした。若者ではないので今さらバックパッカーでもないと思っている。多少の自由なお金はあるが、お金持ちというわけでもない。そこで、若い頃仕事で滞在したこともあり、比較的治安がよいといわれるタイを選んだ。
ジジイとは、巷間、他人をバカにして会社や社会にしがみつく老いた男のことをいうそうだが、自称するときは好奇心旺盛な「青年」なのである。
ジジイといわれても、男はまだまだ「青春」したいのである。今なら歩き回れるし、人生経験も若者より豊かで、若いときより楽しむ術も心得ているつもりである。そして、単なる観光旅行ではなく「ジジイ心を満たす旅」をしたい。
ロッブリーを選んだのは、東京・神田神保町の古書店で見つけた、ある「日本婦人」のことが知りたかったからである。
「フォールコンの妻」と呼ばれる一人の女性である。
ロッブリーは、バンコクの北、およそ一五十キロほどのところにある。
バンコクから、鉄道かバスで行くことができる。ぼくは、バスを選んだ。バンコクの市街を抜けると、ドイツのアウトバーンを思わせるような広く直線的な自動車専用道路が延び、バスはアクセルをぐんと踏んで走る。やがて道の両側は、見渡すかぎりの田園風景が広がってきた。
雨季がはじまる五月の中ごろ、大地は恵みの雨を得て、田園にはかぐわしい緑の風が吹き渡っていく。
ロッブリーの街は、官庁などが集まる新市街と、寺院などがある旧市街とにはっきりと分かれ、バスは新市街のバスターミナルに止まった。新市街のロータリーには、警察官の駐在所があった。
ぼくは、英語とタイ語で、「安全なホテルを教えてください」と、ていねいにたずねた。
若い警察官は、お国自慢のように、街で一番高級なホテルはここだよ、と地図を広げ、ホテルを教えてくれた。
しかも、親切なことに、ホテルに行くサムロー(「三つ輪」の意で、後部に幌付きの座席をしつらえた「人力三輪タクシー」)まで呼んでくれた。
英語を多少話せて、街のことをよく知っている運転手さんだそうである。サムローの料金は事前に交渉して決めることになっている。土地カンもなく、料金の相場もわからない初めての町でサムローに乗るのは緊張するが、警察官が呼んでくれたので安心である。
ぼくは警察官に「ワイ」(合掌。タイのていねいな挨拶)をして、サムローに乗り込み、ホテルに向かった。
運転手は、青いポロシャツを着た痩躯の男で、四十歳代後半といったところだろうか。小さな目が誠実そうであった。
しばらくしてから遠慮がちに「日本人ですか?」と朴訥とした英語で聞いてきた。
ぼくは、「ポム ペン コンジープン(私は日本人です)」とタイ語で応えた。
ホテルに着いてから、青シャツに料金を払い、チップを渡してから、旧市街へ連れてってほしいと頼んだ。
青シャツは、はにかみながらもうれしそうに笑い、料金交渉も成立し、一時間後にホテルの前で待ち合わせることにした。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。