寺岡 黙(旅先:インド)
一週間ほどの沈黙の行を終えたある日、いつものようにガンジス川に座っていたら、「お金ちょうだい」と小さな女の子が尋ねて来た。
「いくら欲しいの?」と聞くと、
「20ルピー(40円)」と少女。
財布の中を見ると、ちょうど20ルピー札があった。
「じゃ、ここに20ルピーあるから、ディディのところへ行ってお金を崩そう。半分の10ルピーをあげるよ」
少女が近くの屋台のチャイ屋の孫娘だと知っていたので、おばあちゃんからチャイを買ってお釣りを少女に渡そうと思ったのだ。ところが、
「やっぱりさっきの話しは忘れて!」
急に少女の態度が変わった。
きっとお金をせがんでいるところを祖母に見られたくなかったのだろう。
「お金の話はともかく、おれはチャイが飲みたくなった。一緒にディディ(おばあちゃんの愛称)の所へ行こう」
おれたちは連れ立っておばあちゃんのチャイ屋へ行った。
「チャイを一杯おくれ」
と、ディディに20ルピー札を渡すと10ルピーのお釣りが返って来た。
「こっちへおいで」
チャイを待っている間におれは少女を呼び寄せた。まとっていたブランケットで少女をおばあちゃんから隠すと、10ルピーを差し出した。
「おれは貧乏旅行者でお金も節約したい。でも、お前もまだ小さいけど、お金が必要なんだろ?だからおれにわざわざ尋ねて来たんだろ?だからこのお金をあげる。だけど忘れちゃダメだよ、お金ばかり追いかけてると一番大切なものを失っちゃうからね」
と、少女の胸を指して言った。少女は黙ったまま頷いて、お金を受け取ると去って行った。
こんな聖人君子っぽいことを言うなんて自分でも驚いたけど、ガンジス川と向かい合いケダルギリのような僧と接してるうちに、自然にそんな言葉が出て来た。
少女におれの言葉がどれだけ届いたか分からなかったけど、インドを去る直前に再びこの町に戻って来た時、少女がすごく嬉しそうにおれを迎え入れてくれたので、ちゃんとおれの言葉を受け止めてくれたに違いないと思った。
「お前が毎日向き合っている母なるガンジス川は、父なるシバ神の髪の毛から生まれたんだ。だからこの川の上流のヒマラヤにはシバ神が住んでいる」
ある日、ケダルギリがいつものように神様の話を始めた。
「私と一緒にガンジス川を北上して、シバ神に会いに行こう」
おれたちは一週間ほどガンジス川上流のヒマラヤへ向かう旅に出た。ヒマラヤの麓に点在する神話に登場する村々を訪ねる旅。
最初に訪れたのは神話の中でシバ神と奥さんのパルバティが結婚した場所。村全体が息をのむほどの静寂に包まれていた。
インターネットもスマートフォンもない世界。中世の世界に迷い込んだかのような素朴な暮らしをしている山の村人たち。
日本での暮らしとあまりにかけ離れている世界にショックを受け、村人たちから神々しささえ感じた。
この旅では、ほとんどの集落でATMが壊れていたり閉まっていたりしたので、途中でお金が尽き、仕方なくトラックをヒッチハイクするなど、ハチャメチャで楽しかった。
そして旅の最中も『沈黙の修行』の時と同じようにできるだけ何も考えず、あるがままを観察し、平静に過ごす訓練をしていた。だけど時にイライラしたり、心が乱されることがあった。それは主に時間のことを考え始めた時だった。
「ババ、9時半にはリシケシへ戻る直通のバスが出るよ。急がなくていいの!?」とバスの時間を考えて焦るおれ。
「お前はお寺に行ってお祈りしなさい」とババ。
「……」
仕方なく近くのお寺へ行って心を鎮めようとすると、何か神様に試されている気がして、イライラする事を客観的に眺め、意識を今ここに戻すように努力した。
ケダルギリは家も家族も全て捨てた出家者。捨てるものが何もないから気持ちが乱されることも極めて少ないことに気づいた。
日本ではまず出会えないようなこのババとの旅の経験は、その後のインド滞在にも影響を与えた。
旅の後半、訪れたゲストハウスやカフェに絵を描き、宿代や食費を稼ぐようになった。
帰国の一ヶ月ほど前、あるカフェの大きな壁に絵を描く依頼をもらった。
でも帰国前にもう一度ヒマラヤの小さな村を訪ねたかったので、最初は「三週間以内には絵を仕上げないと」と言う思いが強かった。
そうすると、絵を描いてることが「やりたいこと」から「仕上げなければならないこと」に変わってしまい、楽しんで描くことができなくなっていった。
その時、ケダルギリとの旅を思い出して、先のことを考えることを一切止めた。
「とにかく絵をまず仕上げて、その後もし充分時間が余ったら小さな村を訪ねることにしよう。無理なら村を訪ねるのは諦めよう」
と、絵の制作に専念することにした。
そうすることで目の前のことに集中できて最後まで楽しく絵を描くことができた。しかも時間も充分余ったので、小さな村も訪ねることができた。
もしあの時、先の予定にこだわり過ぎていたら「早く仕上げなきゃ」と言う思いが強くなり、絵も楽しく描くことができなかっただろう。
結局南のビーチにはたどり着けず、真逆の北インドの旅になったけど、思いも掛けないガンジス川や人々との出会いから今までの自分にはなかった在り方、考え方や価値観を学べた気がする。
この目には見えない宝物を胸に、日本への帰国の途についた。
「何かを変えたい」と訪れたインドで、予定になかった北インドのリシケシの街を訪れた作者。インダス川に向き合う日々を過ごす中で様々な街の方々と出会う。インドでの「あるがまま」の生活に触れる中で、旅の前にはなかった心の変化が生まれる。
・南のビーチへ行くはずが、大規模デモを回避するため、予定外の行程になっていく。思いがけない旅のワクワク感を与える文である。
・文章が長いため、語りたい題材を絞りヤマ場を作ると、読み手がもっと感情移入できる作品になる。今後に期待している。
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