寺岡 黙(旅先:インド)
2017年初冬、インドへ行った。
仕事もなくなり、彼女にもフラれ、「何かを変えたい」と言う思いと「どうにでもなれ」と言う思いが入り混じっての旅立ちだった。
「インドに行ったら南のビーチへ行って海と太陽を満喫しよう!」
と思ってたのに、たどりついたのは北インド、ヒマラヤへの玄関口リシケシだった。
「明日から大規模なデモが始まるからこの街にいては危険だ」
日本から首都デリーに到着した夜、タクシーの運転手から警告を受け、急遽飛び乗った夜行バスがリシケシ行きだったのだ。
十一月、ガンジス川上流沿いのリシケシはビーチどころか少し肌寒いほどだった。
実は18年前、一度リシケシを訪れたことがあり二ヶ月ほどヨガを学んで有意義な時間を過ごした事があった。
だから今回のリシケシは予定外の出来事だったけど、ワクワクした。
滞在したのは18年前と同じアシュラム(ヨガ道場兼ゲストハウス)。中庭の木が随分大きくなっていた。町は賑やかになっていたけど、ガンジス川だけは変わらず豊かに優しく町を包むように流れていた。
数日後、ガンジス川沿いにある古びたチャイ屋のキッチンの絵を描き始めた。
「行く先々で最低一枚絵を描く」
今回の旅は、このことだけを決めていた。
「何か一つくらい旅の目的があった方がいいだろう」
という、いい加減な理由からだったけど、毎日真面目にチャイ屋に通いクレヨンで絵を描いた。
疲れたら息抜きにガンジス川のほとりでチャイを飲みながら過すようになり、そうするうちに段々この川の不思議な魅力に惹かれ始めた。仕舞いに絵を描く日中だけではなく、早朝や夕方も川に行って座り、静かに川の音に耳を傾けるようになっていった。
川に座っていると、ある瞬間、頭の中が完全に静まり返り「川の音だけ」になる時がくる。過去でも未来でもなく、“今ここ”にいるだけ。まるで生まれたままの状態。その体験が強烈で、「ただそれだけでいいじゃないか」とさえ思うようになった。今ここにいるだけ、これだけが唯一の真理で、その他のことは大したことではない、と。
「毎日ここで何やってるんですか?」
ある日、ヨガの先生と言う日本人の若者がチャイ屋に来て、聞いてきた。
「毎日川の音を聞いてるんだよ」
と答えると、
「大丈夫ですか?日本に帰れますか?」
と、その若者に笑いながら心配された。
ー確かに日本にいれば毎日ただ座って川の音聞くなんてこと、しないよなぁ
と、我ながら大丈夫かなと思った。
それどころかもっと極端になってしまい、『ただここにいるだけ』のガンジス川との一体感を、川辺に座っている時だけではなく二十四時間感じていたくなり、首から“Today,NoTalking.(今日は喋りません)”と書いた札をぶら下げ、沈黙の日々を過ごすことにした。すると、アシュラムのスタッフや町の人たちはそんなおれに敬意を持って接してくれたので、とても修行をやりやすかった。きっと過去にもおれのようにこの川に魅せられた人たちが沈黙の行をしていたに違いない。
沈黙の行を始めると、人と距離ができると思ったけど、逆に距離が近くなった人がいた。ケダルギリと言う名のババ。
ババとは、全てを神に捧げたヒンドゥー教の出家者。と言えば聞こえは良いが、実際にはただお金を求めてくるような欲に負けたようなババも大勢いた。
でも、このケダルギリは最初からそういった他のババたちと違っていた。
町中にいる多くのババたちは「ナマステ!」「ハリオーム!」と挨拶すると気さくに返事してくれるのに、ケダルギリはいつも黙って静かに頷くだけ。役者のようにカッコよくて魅力的な人だったけど、どこか近づきにくいオーラを放っていた。
そのケダルギリと初めて距離が近くなったのは、いつものようにガンジス川に座っていた時のことだった。
目を閉じて川の音に耳を澄ませていると、「オーーム、ナマーシバーヤーー」と静かにマントラ(ヒンドゥー教の真言)が聞こえて来た。そのマントラに呼吸を合わせながら川の音を聞いていると、とても具合が良かった。しばらくして目を開けてみると、声の主はケダルギリだった。おれの瞑想のためにマントラを唱えてくれたのだ。
「ありがとう。私の名は黙です」と初めて自己紹介をすると、
「“モク”とは覚えやすい名前だ。サンスクリット語(ヒンドゥー語の古代語)で“Me”という意味。ヒンドゥー教の賛美歌にも『モク』と言う曲があるんだ。」
と、熱心に歌の説明をしてくれた。普段は物静かなケダルギリだけど、一旦神様のことを語り出すと情熱を込めて雄弁になった。本当に全てを神様に捧げたようなババと初めて出会った。
その後、おれが沈黙の行を始めると、ケダルギリはいよいよ熱烈におれに心を開き始めた。
「多くの連中は物質的なものばかり追いかけている。『おれはこの家が欲しい』『この車が欲しい』『このお金が欲しい…』ってね。彼らはせっかくこの世に生まれて来たのに眠りこけて夢を見てるように生きているようなものなんだ。真実はこうした欲望の背後に広がっている」
うんうん!おれは激しくうなづきながらケダルギリの話を聞いた。
以前のおれなら「信心深い人はそう言うこと言うよね」と言う思いがどこかに混じっていたかもしれないけど、ガンジス川と向き合っているうちに、ケダルギリの話を実感を持って聞けるようになっていた。
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