中村 実千代
仕事に向かう会社員達の急ぎ足の波の中に、春色のセーターを着た夫が、呆然と立ち竦んでいた。声を掛けようとして、息を飲んだ。心細げに背中を丸め、私の姿を見付ける夫の悲しげな姿に、胸が詰まってしまったのだ。
「ごめん、ごめん。心配したね。」
私の声に振り向いた夫は、ホッとしたように微笑んだ。
その時、既に、残り時間は十分になっていた。夫を励ましホームへと向かったが、夫の体力は限界だった。あと少しという所で、全く動かなくなった。顔色は真っ青だった。特急電車の発車時刻が過ぎていた。
柱に寄りかかり、肩でゼイゼイと息をする夫は、このまま帰りたいーと言い出した。来るのでは無かったと後悔した。近くに居た二人の駅員に、特急電車の出るホームの場所を尋ねた。すると、すぐそばのエレベーターで下りたら、そこがホームだと言う。そして、一時間後にまた特急が出るから、それに乗るといいと教えてくださった。夫を励ましながら、やっと、目的のホームに辿り着いた。
結局、予定の時刻は全て一時間遅れとなってしまったが、何とか、宿に到着することが出来た。宿で過ごす時間は、予想通りの楽しさだった。苦労をして辿り着いたが、そんな苦労をしてでも、やって来た甲斐のある宿だった。
次の日は、特急電車の出る駅に相談をして、思い切って、車いすを利用することにした。東京駅の構内で、何度も車いすに乗る人を目にして、もしかしたら、夫のことを相談すれば、車いすを利用することが出来るのではないかと考えたのだ。駅員は大変親切で、東京駅で、駅員が車いすを押してホームからホームまで連れて行ってくれるように、手配をしてくださった。
東京駅に電車が着くと、出口に駅員さんが待っていて、車いすに夫を乗せて、次の新幹線のホームに運んでくださった。一日に、三百件の車いす利用があり、それに全部対応していると言う。大変親切に接してくださって、夫も私も安心して、旅を終えることが出来た。
次の旅行では、切符を購入する時に、車いす利用の手続きをした。日本のおもてなしの精神は、他の国には類を見ないと言う。私達は、夫の体が不自由になった時点で、遠い所への旅を諦めかけた。しかし、その旅を再び実現させてくれたのは、この「おもてなし」の精神だと思う。どこの駅でも、車いすで介助をしてくださる駅員さんは、親切でテキパキとしていて、心温かかった。忙しい業務の中で、一人の駅員が一人の利用客にずっと付き添うことは、並大抵のことではないだろう。そのことは重々分かってはいるが、それに頼らなくてはならない者もいる。
車いすで駅の構内を移動して貰っていると、あらゆる場所で、日本人の優しさに触れる。車いすを目にすると、ほとんどの人が、さっと避けて、通りやすくしてくださる。エレベーターに乗り込もうとすると、ボタンを押して、先に入らせてくださる。ホームに着くと、危なくないように、広いスペースを作ってくださる。〈ああ、なんて優しいのだろう〉車いすの利用で、他人の思いやりに沢山触れることが出来た。多分、元気なままだったら、そのような温かさに触れることは、無かったことだろう。
夫は、車いすの利用で、旅が可能になったことを、非常に喜んだ。体が衰えてきて、思うように動けない苦しみは、相当なものだろう。そのうえ、視力も弱くなり、新聞も読めない状態だ。生きていることに、どんな楽しみを持てば良いのだろう。私は、夫を旅に連れ出して、自然の恵みの素晴らしさに触れさせてあげたい。そして、人の優しさ、思いやりの有り難さにも気付いて貰いたい。
「花の香りがする。」
旅の終わりに、夫は、電車の座席に座って、そう呟いた。東京駅までの、一時間半の道のりの途中だった。四両編成ののんびりとしたローカル線だが、窓外の景色は、素晴らしかった。碧く輝く海、緑の山、ホームに咲き乱れる花々、畑の先に続く細い畦道。真っ白な雲は、電車の速度に合わせるように、悠々と流れて行く。〈生きていて良かった〉と、心から思える瞬間だった。
夫には、景色は見えない。それでも、花の香りが心に沁みたのだ。それは、花の香りだけでは無かったと思う。他人に助けられて、遠い憧れの宿に辿り着くことが出来て、生きることの素晴らしさを実感したのだろう。もしかしたら、花の香りでは無く、二人の心に、優しく、何かが香ったのかもしれない。
夫は、その後、専門の医療機関で精密検査をして、秋までには、両目の手術をすることになった。手術で視力は回復すると、医者は断言してくれた。
夫の目が見えるようになったら、旅を大いに楽しもうと思っている。夫も、美しい日本の自然を目で見て、心から喜んでくれるだろう。それが今の私の一番の歓びだ。旅をすることは、何て楽しく心躍ることだろう。さあ、またあの宿に出掛ける準備をしよう。そして私も、旅の途中で、思いやりの精神を発揮して、他人へ優しく出来るようにしたい。心に、花の香りが漂うような旅をしてこよう。
お気に入りの房総半島にある宿に行く事が楽しみである作者。ご主人が年齢と共に目と身体が不自由になる中、人の親切や駅のサービスによって快適に旅行が出来る素晴らしさを表現している。旅行シーンの中で夫婦愛がにじみ溢れている。
●年齢と共に目や身体が不自由になる中、旅への希求と不安などの切実な気持ちが良く伝わり、共感できる。
●旅の途上で出会う方々や駅員の親切さによって、あきらめかけていた旅行が実現できた喜びが、穏やかな文体で良く描かれている。
●ローカル線での旅、目の不自由な方だからこそこそ感じる「香(かおり)」を題材にした点も高く評価。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。