西本 幸司
私は生まれつき、聴覚に障害がある「ろう者」で、それに加え、高校卒業前に、網膜剥離という目の病気で、瞬く間に右目を失明した。更に、残った左目も、網膜色素変性という難病を患っていて、これは、加齢と共に視野が狭くなり、視力が低下、やがては失明に至る。特に、聴覚と右目に障害があり、左目だけを頼りに生きる私にとって、とてつもなく恐ろしい進行性の病気だ。現在の視力は0.1で、視野も約10度と狭く、かなり悪い。
そんな私が、はたして「旅」を、楽しむ事って出来るのか?答えは「YES!」だ。そう言い切れるのは何故か?それは長年、幾度となく世界中を渡り歩いて、自分なりに、あみだした「旅を楽しむための6箇条」という“旅のスタイル”があるからだ。その「6箇条」とは、
@何でも、用意周到にいく
A体力を持つ
B無理をしない
C欲張らない
D常に、探究心を持つ
E運
これら全てが、うまく噛み合った時、その旅は私にとって、100倍、それ以上に素晴らしく、楽しいものとなる。
2014年9月22日、私は同じ聴覚に障害を持つ妻と共に、悲願だったニュージーランドの土を踏んだ。まだ目が見えている間に、どうしても目に焼き付けておきたかった世界遺産、マウントクックを訪れるために、半年がかりで画策した旅だった。
出発を前に、とにかく集められる現地の情報は全て収集し、頭に叩き込んだ。用意出来るものは全て用意し、“用意周到にいく”を基本とし、日程表を基に、旅のありとあらゆるシーンを想定し、イメージトレーニングまでこなす。次に、“体力”づくり。どんなに過酷な状況、時差ボケなど、様々なシーンにおいても即座に対応出来る体力を持つ。これは日々の鍛錬が必要で、私の場合、足場の悪い所や岩場を歩くのが苦手で、旅先でそういう場所に遭遇しても困らないように、歩く練習も欠かさない。そうした事前準備に半年を費やして、最高の旅が出来るよう準備万端で臨む。でも、旅とは、毎度の事ながら、そうは思うように、うまく事が運ばないものだ。だからこそ、障害を二重に持つ私には事前準備が、その旅を大きく左右すると言っても過言ではない。
その事前準備が、きっちりと出来ていた甲斐もあって、4日目までは天候にも恵まれ、全て私の思惑通りに事が運んだ。もう最高の滑り出しで、浮き足だった。3日目の世界遺産、ミルフォードサウンドでは、年間3分の2が雨、という観光地でありながら、快晴で素晴らしい景観を見る事が出来、4日目のクイーンズタウンでは、地元の色々な人たちと出逢い、あらゆる面で助けてもらい、妻にも助けられながら、“探究心”旺盛な私は、雄大なサザンアルプスを背景にして、青く美しい湖に面する街と、その文化に触れ合いながら、楽しく街歩きを満喫した。これで残すはこの旅、最大のメイン、マウントクックのみとなる。
しかし、ここで問題が発生し、状況が一変する。ここまで、快晴続きだったのが、打って変わり、土砂降りの大雨となってしまったのだ。朝、起きて部屋のカーテンを開けて、唖然とした。あまりの激しい雨に、(これでは、マウントクックを拝むなんて無理だ。今まで、順調よく来たのに…)と、大きく落胆し、意気消沈した。でも、(3時間は車で移動するほど、遠くにあるマウントクック地区は、まだマシかも知れない)と、僅かに希望を持ち、(順調よく、ここまで来たのだから、1回で全てを見る!なんて、“欲張らない”で、もし見れなかったら次、また来よう!)と、前向きに考えた。そしたら、気持ちも楽になって、いざ、マウントクックへ。
その移動する車、“運”がいい事に、乗っているのは運転手兼任のガイドと私たちだけで、とてもラッキーだった。ここでもし、他の人と乗り合わせると、聴覚に障害がある私たちにとっては普通に話すガイドの説明に、どうしてもついていけない部分も出てくるからだ。でも、3人だけだったから筆談で、ゆっくりと現地の情報や、色々な事を聞き出したり、ガイドと様々なコミュニケーションが図れて、とても大助かりだった。
だが、現実は甘くなかった。メインの、マウントクックは現地入りしても、大雨で濃霧に覆われ、何も見えない状態。この日のために購入した、私にとって望遠鏡の代わりとなるカメラの交換レンズで、600mmものの超望遠レンズも、ホテルで予約していた、マウントクックビューのお部屋も、何もかも台無しになり、もう泣き出したい気分だった。滞在するのは5日目の午後から、6日目の午前中までで、山を見るチャンスは僅かに1日しかない。
着後、雨が降っていてでも、山が見えないのを敢えて、近くの遊歩道がどんな所なのかだけでも見ておきたくて、ポンチョを着て探訪を試みた。少し歩いただけで靴がボトボトになるほど、降りしきる雨の中を、無謀にも歩いた。当然、山は見えない。それどころか、急に視界まで悪くなって来る。状況によっては、“無理をしない”が鉄則の私は「無理だ!引き返そう。ここでもし、万が一、ケガや遭難でもしたら、せっかくの旅が台無しだ。明日に賭けよう。それでダメだったら今度、また来ればいい」と、妻に言って引き返した。ホテルで翌日の天候を確認するも、「午前中は雨のち曇り。午後は晴れ」という情報。(はあ?明日の午後から晴れ?午後にはもう、ここを発ってるんだよ!)と嘆き、この日はもう全てを翌日に賭けて、ホテルで滞在するしかなかった。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。