大菅 新
15日に行なわれた南京での追悼式典に参加したあと、上海郊外の杭州湾に面する金山衛(きんざんえい)を訪れた。そこは1937年当時、日本陸軍の第10軍が上陸した場所である。1937年11月5日未明、第6師団、第18師団、第114師団からなる第10軍が約100隻の船団によって敵前上陸を敢行したのである。そして当時の首都であった南京に向け侵攻するのであるが、その途中の村々においても蛮行の限りを尽くしていくのであった。
その上陸地点は今は綺麗に整備され、公園のようになっている。ここでまた偶然の素晴らしい出会いがあった。その人はこの金山衛の近く城村(えじょうむら)の住人であった。我々の今回の目的を知ると、彼は“自分の村でも村人が132人虐殺された。その場所に碑を建てて追悼している”という。我々が興味を示すと“私がその場所を案内します”というのだった。そこは普通の観光客はもちろんのこと、南京事件に関わる調査・研究者でもまず訪れることのない小さな村の一角にあった。彼にしたがって小さな路地を進む。その場所は村の公民館の敷地の中にあった。ただこの日は日曜日のため、門扉は閉ざされており、碑のあるところには入れない。彼は門扉を開けようとたびたび鍵の持ち主に電話を入れている。しかし鍵は来ない。ついに彼はどこからか木製の梯子を持ってきて公民館の塀に立て掛ける。少し梯子は短いが、それを上ればかろうじて中を覗き見ることができる。しかし皆が見るには時間がない。この間も彼はずっと連絡をとっている。もう諦めようとしたとき、村人が鍵を届けてくれた。何とか間に合った。
虐殺現場には碑が建てられていた。その碑には『殺人塘』と刻まれている。そこは現在の地面より一段低く、もとは池であったそうだ。住民がこの池のほとりに集められ銃や銃剣で虐殺された。まさに今、その地に立っている。黙祷。
帰りぎわにその村人と握手をした。優しい目でそして温かい手であった。このときふと気が付いた。この目、この手は許巷の許さんと同じものだ。村人は本当に親切に我々に碑を案内してくれた。しかしそれはただ単に“親切な人であった”というだけでなく、我々日本人に“なんとかして碑を見て欲しい” “虐殺の現場に立って欲しい”すなわち“このような虐殺という事実があったことを知って欲しい”という強い思いがあったからではないのか。彼の目も許さんの目も決して怒ってはいなかった。加害者の日本人に対して憤ってはいなかった。あれは恨みの目ではない。憎しみの目でもない。相手を許した優しい目であった。まさに“罪を憎んで人を憎まず”ではないのか。とするとあの許さんの“おじぎ”は単に『ありがとう。わざわざ日本から来て、私の話を聞いてくれてありがとう』という感謝のおじぎではなかったのか。彼ら中国の人々の思いは、“虐殺の事実を直視してくれ”“事実を歪曲せず、歴史の事実を直視してくれ”“変な言い訳をせず、あったことはあったこととして認めてくれ”ということではないのか、と理解することができた。このような被害者の側の当たり前の思いに加害者の日本人は答えなければならない。それには“歴史の事実を知る努力を続けなければならないのだ”と再確認することができた。このような加害者の側の不断の努力があれば、日中の友好関係はゆるぎないものになると確信を持つことができた。
2014年8月23日
日中戦争の追悼式で中国を訪問した筆者は、その道中、戦争で両親を亡くした中国人・許さんや、住民が犠牲になったという地方の村民と出会った。彼らの温かい手やまなざしから、歴史の事実を知る不断の努力が必要であることを再認識した筆者。
重いテーマだが、こうして戦争体験に真摯に向き合うことに意味がある。まさに今の社会的課題にストレートに向き合っている作品。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。