大菅 新
8月14日朝、目覚めると窓の外は一面鉛色の雲に覆われていた。雨粒が間断なく窓ガラスを打ち付けている。これは無錫(むしゃく)のホテル16階からの光景である。上海から8月15日の南京での追悼式典に向かう途中、無錫に立ち寄ったときのことだ。一週間の予定で大阪を出発したのだが、その二日目に早々と驚くべき出来事があった。無錫から東へ約40km程のところに許巷(きょこう)という村がある。無錫市内の錫山区というところにあり今では道路は整備され、高層ビルの立ち並ぶ大きな町となっている。その許巷にある中国共産党地区委員会の仮事務所を訪れた。建物の中にエレベーターはなく、四階の会議室まで階段で上がった。ほの暗い会議室には一人の老人が座っている。顔を見るがもちろん誰かはわからない。状況から南京事件の幸存者であろうとは推測できた。どこかで見た顔である気はしたが、はっきりとは思い出せない。その老人は許 元祖(きょげんそ)といい年齢は80歳、1937年当時日本軍が侵攻してきた時にはわずか3歳(数え年)であったという。
『(前略)…父が立って扉をあけに行った。あけたとたんに射殺された。銃声をきいて、母は赤ん坊を抱いたまま入り口へ出ていった。即座に銃剣で刺し殺された。赤ん坊に乳房をふくませていた母親は、その乳房を刺し抜かれたので、赤ん坊の唇をも切った。父母の死体は入り口のすぐ内側に倒れていて、赤ん坊は二人の血を全身に浴びながら次の朝まで泣きつづけていた。急をきいて祖父母がかけつけたとき、赤ん坊はほとんど息たえだえであった。…(中略)…浴びていた血潮を洗ったり介抱した。しかし医者にたのむというようなことなどできないまま、やがて右目が失明していることがわかった。父母の血を浴びたせいなのか。あまりの泣きすぎなのか、なにか黴菌がはいったのか、原因は不明のままである。』
彼の話を聞いていくにつれて、ふと思い出した。“これはどこかで聞いた話だ。そう、この証言は本多勝一著『南京への道』の中にあった”と。この書籍は日本軍が上海に上陸してから、南京を攻略するまでの進軍経路を追跡し、日本軍が行なった数々の蛮行を被災住民の証言を丁寧に取材し、その蛮行の一つ一つをあぶりだしていくというルポルタージュである。数多くの証言が記載されている中で、許さんの証言は特に印象深かったので記憶に残っていたのだろう。右目を無くされた写真も印象に残っていた。今、まさにその人物が私の目の前で話をされているのだ。事件の起こった1937年から77年もたった今、幸存者の多くの方は亡くなっている。まさか書籍の中に掲載されている方に会えるとは思ってもみなかった。
話が終わり記念撮影をすることになった。私は許さんの真後ろに立った。撮影の後、突然振り返った許さんに握手を求められた。優しい目、そしてしっかりした手である。“ごつごつ”としたまさに農民の手である。その後、私は所用を済ませ帰り支度をし、階段の踊り場にいた。するとそこへ許さんが現れた。おもむろに私に近付いて来て何回も何回もおじぎをされるのである。なぜかわからない。私はどうしていいのかわからず、ただ直立不動で頭を下げた。言葉を発しようとするが、言葉は出ない。もちろん中国語がわからないというのもあるが発する言葉が見つからなかったのだ。そして許さんは階段を降り、建物の外に出る。小雨のそぼ降る中をオレンジ色の袋一つを右手に握り、家路につく。私はただその姿を目で追いかけるしかなかった。彼の背中を見て、その背中は何を語ろうとしているのか?自分で感じ、そして考えるしかなかったのである。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。