受賞地域はいまどのような取り組みを進めているのか、観光経済新聞社さんにリポートいただきました。
大漁旗を振ってサンマ船を見送る出船おくり
宮城県気仙沼市は、魚市場とその周辺の水産業が町の中心産業。気仙沼の港は、かつて航海に出る船を見送る「出船おくり」でにぎわっていた。威勢のいい演歌を流しながら港を出ていく漁船、風に舞う七色のテープ、手を振り見送る人々……。しかし、そんな風景は、漁業資源保護のための減船、収益性の低下による外国人船員の増加などにより、だんだん規模も小さく、少なくなっていった。
そんな状況に危機感を抱いたのが、市内の女性でつくる「気仙沼つばき会」だった。それまでは、家族や関係者だけで行っていた出船おくりを、一般市民や観光客を巻き込んでイベント化し、にぎわいを取り戻した。さらには、気仙沼魚市場を巨大な朝食会場にした「市場で朝めし。」の開催や、気仙沼のヒーローである漁師たちに光を当てた「気仙沼 漁師カレンダー」の制作など、町を活性化する活動を継続している。
大きな焼きサンマに顔もほころぶ
(市場で朝めし。)
軍艦マーチや演歌が流れ、漁業関係者や船員の家族が「いってらっしゃい」と言って手を振るなか、マグロ船やサンマ船が紙テープを引いて港を出ていく。旅館・ホテルの女将を中心とする女性の組織「気仙沼つばき会」が、この出船おくりを観光客も参加できるイベントとして企画し、始めたのは2010年5月。その翌年の11年3月11日に東日本大震災が起きる。
気仙沼つばき会の煖エ和江会長は「産業がズタズタにされて、この町はどうなるのだろうという危機感をみんなが感じた」と当時を振り返る。震災をきっかけに気仙沼つばき会の活動方針が変わることになる。「とにかく不安で、『この町はここにあります』と気仙沼の存在を知らしめなければいけないと思った。観光客をもてなすという目的から生まれた会だが、震災によって、おもてなしよりも、漁業にまつわるコンテンツを作ったり、その情報を発信したりして気仙沼の町を盛り上げようという気持ちにシフトしていった」。
震災が契機となって生まれた情報発信ツールの一つに、13年10月に発売した「漁師カレンダー」がある。「我らが漁師はかっこいいぞということをみんなに自慢したいと思った」と煖エ会長。カレンダーは1年間、目にするものなので、人の心に刷り込まれるだろうという発想で企画した。
漁師カレンダーのチラシ
JTBと気仙沼つばき会との取り組みが始まったのも震災がきっかけだ。11年10月からJTBが被災地応援のバスツアーを開始。参加者が瓦礫の撤去や地場産業の手伝いをするというツアーで、気仙沼つばき会のメンバーが毎月1台ぐらい来る大型バスに1人か2人乗り込み、町を案内するアテンダント役を引き受けた。夜の座談会にも加わった。「震災後の復興の仕事もあり日々が過酷で、時間を割くのは本当に大変だった。でも、共に手を取って『応援しているよ』『ありがとう』といった都会の女性たちとの交流はとても意義があった」。温かい気持ちを持つ人たちと接する機会を作ってくれたJTBに感謝している。
震災1年後ぐらいから一般の人がこなせる復興の作業がなくなってくると、JTBのツアーは徐々に「酒の海中貯蔵」や「海のカキを食す会」など体験型の内容に変化していった。観光で地域に貢献するのが狙いだ。また、出船おくりイベントが本格的に復活した震災から3年目、そのつばき会の活動を応援するツアーも組んでくれた。
昨年に「第11回JTB交流文化賞」の優秀賞を受賞し、煖エ会長は、JTBと連携した取り組みが今後さらに深まることに期待を寄せている。「JTBは私たちにない発信力や企画力を持っている」と語る。
また、10月第4日曜日の「市場で朝めし。」といった気仙沼つばき会の取り組みもJTBの知恵を借りて盛り上げたいと煖エさん。「町にはまだ震災でうつむいたままの人がたくさんいる。私たちが外の人から元気をもらったように、外の人たちともっと交流することで元気になる地元の人が増えたらうれしい」。
気仙沼つばき会会長
煖エ氏
地域の取り組みが全国に数ある中で、私たちの団体が入賞するのは信じられない気持ちだった。
つばき会のみんなは、気仙沼を盛り上げたい一心で、嫌な顔一つせず、喜びながら楽しみながら活動に参加してくれている。その団体としてのまとまりが自慢だ。
すごい賞をもらったねと対外的に言われるようになった。「ここはしっかりとした団体だ」とJTBに太鼓判を押してもらったような感じだ。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。