山北 羽紗(場所:広島県)
「一九四五年八月六日午前八時十五分、ヒロシマに原子爆弾が投下されました。」
勉強の為にと母がくれた音声ガイドから、そんな音声が流れてきた。展示物とその冷淡な声、見物客の表情が、原爆の惨烈さを物語っていた。
中学校に入る前の春休み、家族と広島に行った。広島に行くと決めた理由。それは二つある。一つは、純粋にまだ行ったことがなく数ある名所を自分の目で見てみたかったからだ。もう一つは、祖父が関係している。私の母方の祖父は広島で生まれ育った。つまり、被爆者である。原爆が起きたとき、祖父は箱根に疎開していたそうで、直接の被害は受けていない。でも、原爆の後現地に足を踏み入れているので、二次被爆者にあたる。だから、原爆は多からず私と関係しているのだ。
その祖父が、三月十九日の真夜中、たくさんの家族に見守られる中で息をひきとった。泣いた。母と共に祖父の片手を握りしめながら、ひたすら泣いた。祖父の手は、温かかった。生きていた証があった。太い骨、ぷくぷくの血管、私のおじいちゃんだと思った。
「ヒロシマの人々はどうだったのか。」
そんな風に逝ってしまった後の姿に思いを馳せることはできたのだろうか。手や足が無くなった体。火傷の痕跡が残った体。一つ一つの体にストーリーがある。そのストーリーの数々を、私はこのとき知った。何百万もの大切なストーリーを原爆は奪っていったのだ。愛する人達に心の準備の時間も与えず、一瞬で消し去った。
二度と同じ過ちを繰り返さない。ヒロシマから平和を発信する。誰もが一度は聞いたことがあるだろう。私もそうだった。でも、その「聞く」は耳に入ったことがある方で、考えて自分なりに変換する方ではなかった。「聞く」が、後者の意味になったのは、今回が初めてだった。焼跡から出てきた品々、死体が浮き沈みする川、残された家族の話・・・・・・。加えて、初めて経験した身近な愛する人の死。これらは、私の心に深く刻まれ、原爆について考えさせられるきっかけとなった。
資料館、原爆ドームと、惨烈さを胸に刻んだあとで、次に訪れたのは、「おりづるタワー」という施設だった。広島を一望できる展望台や物産館、カフェなどがあるが、この施設のメインはそれらではない。この施設のメイン。それは「おりづるの壁」だ。ここでは、自らの手で折り鶴を折り、ガラスの壁に投入するという体験ができる。たかが鶴を折るだけと考えるか、その「たかが」を行う意味を見い出せるかどうかで、この体験の意義は変わってくる。鶴を折る僅かな時間で私は、犠牲になった方々のことを思っていた。一人の今を生きる日本人として、想いが届けば良いな、と考えながら鶴を投入した。
この「おりづるの壁」は、外から鶴がどれぐらい投入されたかを見ることができる。私も見に行った。まだ五分の一くらいしか、折り鶴は積もっていなかった。けれど、それらの一つ一つに、心に秘めた思いが込められていると考えると、とても詰まった五分の一であることが分かる。もし、生者が死者の世界と継がる術があるのだとしたら、それは折り鶴だと私は思う。あくまで私の想像だが、生者は折り鶴に思いをのせて死者に伝える、ということができるのではないだろうか。私の亡くなった祖父も然り、原爆の犠牲になられた方々もまた然り。ヒロシマという街を自分の目で見たことで、ふとそう思った。今回、決して忘れることのできない、このヒロシマ旅行を終えて私が願うことはただ一つ。「おりづるの壁が全て埋まった時、折り鶴が平和のシンボルとして人々の心の中に羽ばたきますように。」
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