橋本 翔右(場所:横浜)
父が車イスに乗るようになって、初めての夏休み。家族で旅行するにはどこがいいか、相談していた。父が、中華街でおいしい中華料理を食べたいというので、行き先は横浜に決まった。いつもはタクシーで出かけていたが、今回は最寄駅の明治神宮前駅から、元町・中華街駅まで乗り換えなしで行けるので、思い切って電車で行くことになった。
ぼくが父の乗った車イスを押し、母が三人分の荷物を入れた大きなトランクを転がす。日頃、人混みの中を車イスを押して、近くのスーパーや銀行まで行っているので、その日もぼくは楽勝だと思っていた。ところが、明治神宮前駅の改札階へ下りるエレベーターが、乗ろうとした直前に、ドアが故障して閉まらなくなった。周りの人達はあきらめて近くの階段から下りて行く。しかし、車イスと大きなトランクでは、階段は絶対に無理だ。タクシーで渋谷駅まで行こうと母と話し合ったが、よく考えてみたら、タクシーのトランクには車イスと一緒に大きなスーツケースは入らない。結局、渋谷駅まで歩いて行くことになった。
汗をかきながら渋谷駅に着き、改札で母が駅員さんに言う。「車イスで元町・中華街駅まで行きたいのですが・・・・・・。」駅員さんは、「係の者を呼ぶのでちょっとお待ち下さい。」と、慣れている様子で対応してくれた。駅員さんが係の人に電話した後、ぼく達は案内されてエレベーターでホーム階へ降りた。そして、ちょうど発車しようとしていた急行の電車に板を渡してもらい、電車に乗りこんだ。ぼくは、初めて車イスを押して電車に乗ったのでドキドキしていたが、駅員さんは当たり前のように親切に対応してくれたのがうれしかった。
元町・中華街駅に着くと、ホームにはすでに係の駅員さんがいて、ぼく達に少し待つように合図する。よく見ると、同じ車両に車イスを利用した家族が乗っていて、その人達を降ろした後がぼく達の番らしい。電車から降りて駅員さんにお礼を言い、改札を出て、地上行きのエレベーターに乗った。そこでも車イスを利用した他の家族を見かけた。横浜は車イスを利用する人が訪れやすい場所なのかもしれないと思った。
予約していた、駅からすぐのホテルへ行く。チェックインを済ませ、早速、中華街へ食事に行くことになった。いろいろ調べて、東門から近い「招福門」という店に決めた。平日の夜だったので、それほど人は多くなく、すぐに店は見つかった。いよいよ中へ入ろうとすると、入り口に段が二つある。一段の時は、車イスの後ろのレバーを足で押し、前輪を上げれば越えられるが、二段は難しい。ぼくと母とで四苦八苦していると、ちょうどその店から出てきたお客さん数人が、協力して車イスを持ち上げてくれた。以前も、車イスを押していて、麻布十番の鳥居坂周辺や王子の駅前ビルの急なスロープで、前に進まなくて困っていると、そばにいた人が助けてくれたことがあった。すぐ店に入ると、店内は車イスを動かしやすい空間だったので、父も母もぼくも安心して思う存分中華料理を食べることができた。
次の日はあいにく朝から雨だった。山下公園や元町へ行くのに、小雨になるのを待った。そして、母は両手に傘を持ち、一つは自分に、もう一つは父と、車イスを押しているぼくにさしながら歩いた。母の希望で、昼食は「ガーリックジョーズ」という店に行くことにした。店の前に着くと、やはり入り口に高い段がある。どうしようかと困っていると、店の人が出て来てくれた。車イスをたたんで入り口に置けば、ソファー席まで誘導してくれるという。それで、ここでも無事、食事をすることができた。帰る時は店の人が、店の外まで出て手伝ってくれた。
今までの旅行は、時間がない時は走ったり、階段が急でも多くても困らなかった。雨が降っても、計画通りの旅行をしていた。でも、今回の旅行は違った。目的地に着くまでに時間は数倍かかるし、体力もいる。道の段差を気にして歩き、雨の時は傘をさせない。また、車イスが通れない所は、目的地に到達することをあきらめなければいけない時もある。そして、周囲の人々に助けてもらうことが多い。
今はインターネットが普及して、人と会うことや一緒に行動をすることが少なくなった。しかし、親切にしてくれる人は身近なところに必ずいる。利己的な考えを持つ人が多い世の中かもしれないが、困っている人を見れば、人には助けようとする精神が残っていることを確信した。それはうれしいことだし、いつまでも続いてほしいことだ。そして、誰かが困っていたら、今度はぼくが助ける番だ。
筆者と母、そして車イスに乗る父と横浜へ家族旅行に行くことになった。車イスを押しながらの道中、様々な苦労やハプニングに遭いながらも、母や出会う人と力を合わせて旅は続く。駅員や見知らぬ人々との交流の中で多くの優しさに触れ、今度は筆者自身が人に優しく、人の助けになりたいと強く心に誓う。
・車イスを押すことで、今まででは気づかなかった多くの新たな発見があり、それぞれが具体的に描かれていて良い。
・道中での苦労や交流の中で、その時どう感じ、どう考え、どう行動したかが克明に表現されており、旅の充実が見て取れる。
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