白根 智仁 (旅先:福井県大野市)
ぼくは、夏休みに、木地師体験をしました。ろくろを使って、木から器を作る仕事ですが、ぼくは、初めて見たし、初めて自分で木の器を作りました。ろくろを考案したのは、平安時代の初め、文徳天皇の第一皇子、惟喬親王で、小椋谷に住み、この地の人達にその技術を伝授したと言われています。木地師発祥の地は、小椋谷とよばれる、東近江市蛭谷町、君ヶ畑町なのです。ぼくは、ぼくの住む東近江市に、日本で初めてろくろを使って木の器を作った所があって、そこが木地師の聖地になっているなんて知りませんでした。市の中心部から、車で約一時間、山道を登って行った所、木々が茂り、真夏なのに川の水は冷たく、風が心地良い所でした。
ぼくに、ろくろや手カンナの使い方を教えて下さったのは、若い職人さんで、お父さんを見て、同じ道を進もうと思われたそうです。今も、福井県で修行されているとのことでした。使っている道具は、全て職人さんの手作りで、職人さんによって、それぞれ道具が違います。手カンナの元は一本の鉄の棒で、それを自分で手カンナの刃に仕上げると知って本当にびっくりしました。木地師は、器を作る技術を持っているだけではなく、自分達が使う道具を作る技術も持っているのです。個人の技術であるからこそ、すばらしいのですが、これは、人が伝えていかなければ、いつか消えていってしまいます。
ぼくは、木地師の体験をして、木地師が小椋谷から全国各地に旅立った後、どのように技術を伝えていったのか、とても興味がわきました。家族旅行で福井県に行こうと計画した時に、「六呂師」という地名を見つけ、行ってみることにしました。六呂師高原のある大野市は、かつては、確かに木地師が多かったようですが、明治時代に入って木地師の特権がなくなると、どんどん数が減ったそうで、今は、ロクロという地名が残っているだけのようでした。調べてみると、日本国内の、オグラという姓の人は、元々木地師で、住む場所に、ロクロやキジという地名をつけていたとわかりました。こけしを作ったり、木の器を作ったりする木地師の技術は、消滅はしていないものの、すごく少なくなっていて、なんだか、すごくもったいないような気がしてなりません。全てが機械化されてしまったら、人の手の技術、個の魅力は、一体どうなってしまうのだろうかと、心配になりました。
小椋谷の木地師は、数は少ないけれど、自分達の仕事に自信を持ち、木が好きで、何よりも、楽しく仕事をされています。ぼくは、今ある伝統技術は、後世に伝えるべきだと思います。昔から続いてきた技術は、今、途切れてしまったら、復活させるのが難しくなります。温かい木地師の技術を是非守りたいです。ぼくは、小さな市内の旅で、大きな時を越えるような体験が出来ました。ぼくは、これからも、良く知り伝えることによって、少しでも伝統技術を守る力になりたいです。
身近な場所が木地師の聖地と言える場所であったことから、木地師の技術や歴史に興味を持ち、後世に伝統技術を守り伝えていくことの意義を感じた
●地元の身近な場所、普段は気にかけていなかった場所が、実は木地師の聖地と言える場所であった驚きや、そこから木地師の技術や歴史に興味を持ち、後世に伝統技術を守り伝えていくことの意義を感じたことが、素直に描かれている。
●ろくろについても勉強されており、一般的に知らない事も書かれており論理的に表現されている。
●「身近なところで本物を見た!」貴重な体験が丁寧に書かれている。
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