田呂丸 麻耶 (旅先:奈良)
「日差しが暖かくなってきたね」。春先のとある日、夫と2歳になる息子とともに、東京から新幹線を乗り継ぎ、京都から奈良行きの電車に乗った。車内は思ったよりも混雑していて、人々の笑顔からは活気が受け取れる。さすがは京都、日本屈指の観光地だ。今回は、三連休を利用して、久しぶりの奈良旅行を企画したのだった。行き先を奈良に決めた理由は、息子に本物の鹿を見せたかったのと、宿泊してみたい宿があったからだ。電車が大好きな息子は新幹線からご機嫌な様子で、その笑顔に私たち夫婦はふっと笑顔になった。
そろそろ発車時刻にさしかかろうとした時、勢いよく外国人のカップルが飛び込んできた。額にはうっすらと汗をかきながら、片手にはガイドブックを持っている。しかし、「この電車で果たしてよかったのか?」といった表情で、キョロキョロとあたりを見渡していた。私は、その不安げな表情に「大丈夫かな?」と少し心配になっていると、カップルの女性が私の隣に席を見つけ、ストンと座った。私は息子を膝にのせて座席を一つあけると、「こちらの席もどうぞ」と外国人男性にすすめた。
盗み聞きをするつもりはないが、聞こえてくる2人の会話はどうやら英語ではない。どこか、懐かしい響きがあった。そう、その言語とは、英語ではなく「スペイン語」だった。
学生時代から私と夫は旅が好きで、それぞれ個人旅行で世界中を歩いてきたけれど、結婚してからは休みの関係で、リゾートでのんびりと過ごすスタイルとなった。子供が生まれてからは、国内旅行の近場が多くなったが、その分旅に出る回数は格段に増えたような気がする。実はお互い、中米の地「グアテマラ」でスペイン語留学をしていたこともあって、スペイン語にはある程度明るい。
ガイドブックとにらめっこしている2人を見ていると、おせっかいな気持ちが働いた。話しかけようか迷っていると、主人が「困っているんじゃない?話してみようか」と背中を押す。私は笑顔で「スペイン語圏の方ですか?」とスペイン語で言葉を投げかけた。カップルの2人は、英語ならまだしも、スペイン語で話しかけられたことに少々驚いている様子だった。独特の響きを懐かしく感じたのか、ぱぁっと表情が明るくなり「はい!スペイン語が話せるんですね!どこで習ったのかしら?」と女性がハツラツと答える。続いて夫も話しかけると、日本人夫婦がスペイン語をしゃべるのがとても珍しかったのか、そこから怒涛のようにスペイン語の会話がスタートした。マドリッド近くの出身であること、京都に滞在していて奈良に一日観光に来たこと、今回の日本旅行は新婚旅行という事など…。
実は8年前、私たちが新婚旅行先として選んだのは、まぎれもないスペインだった。青い空、澄んだ風、美味しい料理、その全てが心地よかった。まるまる2週間、地図を片手にさまざまな場所を歩いたが、郊外に行けば行くほど情報が乏しく、私たちは行く先々で多くのスペイン人に助けられた。道が分からなければ時間を割いてその場所までついて行ってくれたり、ワイナリーを案内してもらったり。旅が充実していたのは、間違いなくその場所に住んでいた親切なスペインの方たちのおかげだ。新婚旅行先がお互いの国同士ということもあって、2人にさらに親近感が芽生えた。
旅とは、なぜかトラブルがつきものだ。思った通りうまくいくこともあるが、困難な状況も経験してきた。しかし今までの多くの旅の中で、私は本当にたくさんの人から親切を受け取り、その都度助けられ、乗り切ってきた。だからこそ、日本を旅している外国の方を見ると、「いつか恩返しをしたい」と思っていたが、日々生活をする中で、なかなかそのような機会に恵まれなかった。だが、今がその時かもしれない。
奈良は修学旅行以来、20年ぶりの訪問。特別詳しいわけではないが、ある程度行きたい場所やお店などを調べていたこともあって、「プロのようなガイドはできないかもしれないけれど、一緒に街を歩かない?」と勇気を出して誘ってみた。2人はとても喜んで、行動をともにすることになった。1時間前までは知らない者同士だったのが、突如としてできた5人の小さな団体ツアー。同じ土地、同じ電車、同じ車両に乗っただけの偶然が生んだ結果だ。旅は始まったばかりだが、私の心は高鳴った。
時計を見ると、すでに10時を過ぎていた。私たちは、奈良駅から繁華街に向かって歩き始める。商店街は活気を帯びていて、日本人はもちろん、外国の方も多く見受けられた。とあるお店の前に人だかりができている。覗いてみると、よもぎ餅の有名なお店で、餅つきの実演が行われていた。目の前で素早くつかれる、やわらかでふわふわとした食べ物。目にも止まらぬ素早い餅つきの動作に、2人は興味深々な様子だ。確かに、お餅はあんなに柔らかいのに、杵で力強くついても弾力があるのは、日本人の私から見ても不思議な光景だ。
外国の方にとって、もちもち食感のお餅は未知なる食べ物だと思う。外国の友人たちも、餅を初めて食べた感想を聞くと、「いつ飲み込んでよいのか分からない」といった不思議なことを言う。また、スペインなどの外国では、豆は「しょっぱく味付けされたもの」ということもあって、甘い豆である「あんこ」にびっくりするらしい。私はよもぎ餅をすすめると、2人は恐る恐る口に入れた。どんな反応をするか少し心配だったが、「生まれて初めて食べたけれど、なんて美味しいの!」と、あっという間に平らげた。よほど美味しかったのだろう、お土産用にさらに2つ購入していた。つきたてのお餅は、日本人の私でもなかなか口にする機会はない。久しぶりに食べると、口からじわじわとその美味しさが身に染みる。彼らが日本の食文化を体験し、純粋に喜んでいる姿をみると、私までとてもうれしくなった。
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