柴 茜 (旅先:北海道)
目覚めたときの光で、今日は快晴だとわかった。
アラームの音で起こされた娘も、寝転んだまま目を開けずに思い切りのびをしている。
急いで身支度をととのえて、食堂へと下る。
「おはようございます!」
おかみさんとご主人の明るい笑顔に迎えられて、席に着く。
自分以外の誰かが作ってくれるごはんはそれだけで嬉しいのに、焼き鮭、生卵、海苔、納豆、いくらの醤油づけ…少しずつたくさんの種類が盛り付けられた旅館ならではの朝ごはんは、特別に幸せだ。
娘の手が届かないよう味噌汁を遠ざけ、こぼしたご飯粒を拾い、残した牛乳を飲みほす…と、いつも通りせわしなかったけれど、胃袋は十分に満たされて、エネルギーの消費を待ちわびている。
旅立ちを決めたのは、出発のわずか二日前だった。
反対されることは目に見えていたので誰にも告げず、まだほとんど口もきけない一歳五ヶ月の娘と二人きりの、無計画で無鉄砲な往復三千キロの旅。
行き先は北海道・剣淵町。ガイドブックには載っていない、三十年ほど前から絵本で町おこしに取り組んでいる小さな田舎町だ。
何年か前に観た、この町で撮影された映画の、明るい田園風景がずっと心に残っていた。
一人でする育児に悩み、けれど心配はかけたくないという思いから誰にも打ち明けられず、寂しさや劣等感が募ってどうしようもなく行きづまっていた夏のある日、ふいに剣淵の情景が脳裏に浮かんだ。
スマホで『剣淵』と検索すると出てきた町役場の番号に、即座に電話をかけ、「長野県に住んでいる者ですが、剣淵への行き方を知りたいんです」と唐突に尋ねる。映画で観た風景や絵本への興味を話すと、電話口の男性は、「そうですか〜!ぜひ来てください!」と気さくに、詳しいルートを教えてくれた。
思いつきは急に現実味をおび、その勢いで飛行機の便を検索し、逆算して地元の駅からの出発時刻を調べ上げた。ハイシーズンなので、旅にかかる費用はアルバイトのお給料三ヶ月分。自分のためにお金を使う余裕などない生活をしていた私には、大きな決断だった。
初めての国内線の飛行機、レンタカーの運転、幼い娘を連れていくこと…不安は尽きなかったが、期待の方が勝り、翌々日には、ほんものの空を飛んでいた。
旭川空港でレンタカーを借り、高速道路かと錯覚してしまうような、信号のない長い長い道路をひたすら走り続け、剣淵にたどり着く。
無事に着いたという安堵と、どこまでも静かな、静かな夜は、日ごろ寝つきの悪い私に、あっという間にまぶしい朝を連れてきてくれた。
朝食をすませ、旅館からほど近い剣淵町役場に向かった。
町づくり観光課の係長さんは「まさか本当に来てくださるとは」と目を丸くし、「おーい、みんなで写真撮ろう!」と職員に呼びかけ、『絵本の里けんぶち』という大きな横断幕の前で集合写真を撮ってくれた。
観光マップをもらうだけのつもりが、思いがけず地域おこし協力隊の二人が町を案内してくださることになった。すらっと背の高い男性の鈴木さんは剣淵出身でUターン、くりっと大きな目をした女性の今井さんははるばる大阪から来たのだという。
町内の説明を受けながら、絵本作家のあべ弘士さんの壁画がある小学校へと向かう。広い校庭の脇に車を停め、壁画の真下まで近づく。
校舎の壁面には、北海道の冬景色が描かれていた。
大きくのびやかに羽を広げたシマフクロウは、壁をぬけ出して、広い青空に向かって今にも飛び立ってしまいそうだ。
その澄んだ青は、私が人生で目にした空色の中でもとびきりだった。
ロケ地になったバス停に向かう道で、畑に広がるレモン色の花は何かと鈴木さんに尋ねると、「菜の花ですよ」と言われて驚いた。
この北の大地では、夏のさなかに菜の花が咲き乱れるのだ。
今井さんも「びっくりですよね!私も去年の十月から剣淵に来たので、初めての夏なんです!」と嬉しそうに言った。
家々はどれも一様に、雪が積もりにくいよう傾斜の急なへの字型の屋根をしていて薪ストーブの煙突があり、倉庫は屋根が丸い。
真夏の太陽の下では想像もつかないけれど、この町の冬は、やはり厳しいのだ。
バス停で撮影を終え、鈴木さんが「あそこはとっておきだから」と最後に残しておいてくれた、『パッチワークの丘』が一番きれいに見えるという場所へと向かった。
町民しか知らないという、すれ違いのできない細い道を進んでいく。
いよいよ丘を登りきる手前までくると、ジェットコースターの頂点のように、目の前には空しか見えなくなった。
この先には何が待っているんだろう、小さなときめきにも似た期待が込み上げてくる。
丘を登りきった場所からは、町中が見渡せ、麦やジャガイモの畑がすぐ足元から連なっていた。
農作物の畑が自然に織りなす、緑や明るい黄緑、白、土色がつなぎあわされた風景。
自分が小人になって大きなカーペットを眺めたら、ちょうどこんなふうに見えるのだろうか。
しばらく景色を楽しみ、その場所からまたなだらかに下っていく。
小さな丘をいくつも越えて走るこの道の先には、希望以外にない、と感じさせてくれるような、どこまでも明るく晴れやかに続く道だった。
広大な風景の中で、ついこの間まで危なっかしかったはずの娘の足取りは力強く、しっかりと大地を踏みしめていた。
「一歳五ヶ月って、もうこんなにしっかり走れるものなんですね!」と、今井さんに言われて「そうなんです」と反射的に答えたものの、母親の私が内心驚いていた。
追いかけるこちらが疲れ果てるほど、娘はいたるところで走り回り、カメラのフレームからすぐに外れていってしまう。きゃとぎゃが混じったような、表現しようのない高く大きな声で興奮して笑い、行き止まりなく広がるこの世界を、全身で楽しんでいた。
どの瞬間を切り取っても、きっと娘は今、生まれてから一番開放的に笑っている、最高の写真になるだろうな、と思った。
※文中に登場する会社名・団体名・作品名等は、各団体の商標または登録商標です。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。