篠 海斗
今春、僕達家族は、初めて、函館を旅した。東京では、既に桜の開花が発表されていたが、函館は、雪解けしたばかりで、頬をなでる空気がとても冷たかった。
早朝の飛行機で、函館空港に到着した僕達は、早速、楽しみにしていたウニ・イクラ丼を平らげると、市内の散策へと足を運んだ。その頃、函館は、数日後に北海道新幹線の開通を控え、至る所に、「はやて」と「はやぶさ」のポスターが貼られ、街中に、お祭りムードが漂っていた。
「やっと、新幹線で繋がるんだね。」
「そうだな。」
少しして、父が思い出したように、
「そう言えば、海斗は、青函連絡船って知ってるの。」
と、僕に尋ねた。
「ううん、名前くらいなら。」
僕は、青函連絡船について、青森と函館の間、津軽海峡を人と物を乗せ、運行していた大型の船という薄っぺらな知識しか持っていなかったので、自信のない返事しか出来なかった。父は、そのことを察したようだった。
「そっか。じゃ、行ってみるか。」
僕達は、父に促され、青函連絡船記念館摩周丸を訪れることにした。
摩周丸は、一九六五年から一九八八年三月十三日の青函連絡船最後の日まで、二十三年間、就航していた連絡船で、現在は、記念館として、第二の人生を送っている。函館港の岸壁で、静かに保留されているその姿は、所々、錆びてはいるものの、青と白のコントラストが美しく、近くで見ると迫力があった。船内に入ると、船特有の油の臭いがし、波で船体が少し揺れていた。僕は、船内に展示されているパネルや模型をのんびり見学していると意外なことに気付いた。青函連絡船の船内には線路が敷いてあったのだ。僕は、この線路の役割について、興味を持ち、海上輸送の仕組みを再現した模型をじっと見ていた。連絡船は、船内に敷かれたレールと陸上のレールを接続することで、貨物列車を海上輸送していたのだ。
「連絡船はね、機関車も運んでいたんですよ。」
声がする方へ顔を向けると、白髪の男性が、にこやかな表情で立っていた。その方は、記念館の副館長、佐藤さんだった。佐藤さんは、一等航海士をされていたこともあり、連絡船について、よく御存知だった。
「青函連絡船の発着時刻は、鉄道の時刻表に載っていたんですよ。列車は、定時発着、定時運行しなくちゃいけなかったので、海が荒れた時は、かなり苦労しました。」
佐藤さんは、暫くの間、僕達に戦時中の悲劇や台風十五号による大惨事、有名な海難事故について、様々なエピソードを混じえながらパネルを指差し、解説して下さった。その中で、僕が一番印象に残ったのは、一九〇三年に起きた東海丸の沈没事故の話だった。津軽海峡を渡っていた東海丸が、ロシアの貨物船プログレス号に衝突され、沈没する事故だ。その際、東海丸の久田佐助船長は、自分の体をブリッジの手すりに縛り付け、最後まで、付近を航行する船や沿岸に救助を求める汽笛を鳴らし続け、船と運命を共にしたそうだ。僕は、久田船長の痛ましくも責任あるこの行動に、敬服すると共に、切なさを強く感じた。
「その当時の船長さんは、みんな責任感が強くてね。船の一大事に、最初に逃げ出そうなんて人はいなかったんですよ。」
僕は、佐藤さんのこの言葉に、二年前、二〇一四年に韓国で起きたセウォル号の悲劇を思い出していた。
僕達の摩周丸の見学は、佐藤さんの御蔭で、青函連絡船の歴史と見えない線路が、繋いで来た大切な役割、そして、それを支える人々の思いを感じることが出来た。
青函連絡船は、青函トンネルの開通によって、八十年間の歴史に幕を閉じた。長い間、天候に左右されながらも、津軽海峡に見えない線路を繋ぎ、ただひたむきに、安全第一、定時発着、定時運行を心掛けて来た青函連絡船。その見えなかった線路が、長い年月と苦難を乗り越え遂に、新幹線の線路で繋がる。北海道新幹線開通の朝、その様子をテレビで観ていた僕は、佐藤さんの話や青函連絡船のことを思い出し、とても感慨深かった。これからは、見えない線路が繋いで来た思いを新幹線の線路が繋ぎ続けて欲しいと心から願う。そして、次にこの地を訪れる時は、新幹線に乗り、津軽海峡を渡ってみたいと思った。
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