JTB交流創造賞

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交流創造賞 一般体験部門

第11回 JTB交流創造賞 受賞作品

優秀賞

真っ赤な招待状がくれたもの

土松 真理子

三月三十一日、退職辞令と大きな花束を抱えて帰宅し、郵便受けを開けると、真っ赤な封筒が入っていた。差出人の名前を一目見て、「うわぁ」と思わず声をあげてしまった。

家庭の都合で、仕事を定年より少し早く退職することになった。複雑な思いで迎えた、その最後の日に合わせたように、中国の友人から結婚式の招待状が届いたのである。

手紙をくれた友人、通称「木木(ムーム)」と出会ったのは、中国天津市の大学の校内である。八年前、日本人学校の職員として派遣された夫に帯同し、二年間を天津市で過ごした。この機に中国語を少しでも学びたいと通った大学で、木木は日本語を学んでいた。中国の学生は積極的で、日本人と見れば、自分の親と同年代の私のようなおばさんにもよく声をかけてくる。
「日本の方ですか。私は日本語を勉強しているのですが、よかったら一緒に勉強してもらえませんか。」

こうして私と木木は、週に一度、午前の授業が終わると待ち合わせて、「相互学習」を始めた。人が多くて騒がしい学生食堂で、安いランチを食べながら、二時間程おしゃべりを楽しむのだ。互いの語学向上のために、前半は中国語だけで、後半は日本語だけで話そうと決めたけれど、彼女の日本語はぐんぐん上達し、そのうちほとんどの時間を日本語で話すようになってしまった。彼女のテストや論文の準備を手伝ったり、日本への留学の相談にのったりもした。たった半年間のことだ。

私が日本に帰国した後に、木木は本当に日本に留学を果たし、大学院を含めて約三年を過ごした。私は岐阜県、彼女は千葉県でなかなか会えなかったけれど、いっしょに東京をはとバスで観光したり、田舎の我が家で正月を過ごしたりして、交流が続いた。私としては今も「若い友人」と思っているが、いつしか彼女は私のことを「日本のママ」と言うようになっていた。昨年、木木の故郷の中国寧夏回族自治区銀川市に戻り、日本語の教師となり、かねてから約束していた男性と結婚することになったのだ。

もし私が仕事をしていたら、休みを取って中国に出かけることはできなかっただろう。長年の仕事を終えたこの日に届いた真っ赤な招待状は「これからは、人との絆を大切にして、ゆったり生きるんだよ。新しいステージにようこそ。」と言ってくれているようで、素敵な偶然に驚き、心から嬉しかった。

さっそくメールでお祝いと出席の意を伝えると、どんな結婚式なのか、日本の文化との違いにどきどきしてきた。まして、一度も訪れたことのないシルクロードの中の回族(イスラム教徒)自治区である。木木も回族で、日本でも豚肉は食べなかった。どんな準備をしようか、何を着ていこうか。結婚式は五月十六日だが、私たちの旅はもう始まっていた。

中国では、黒いスーツに白いネクタイは葬式の服装と聞いたので、夫は普段のスーツに赤いネクタイとした。以前、天津のレストランで見かけた結婚式では、誰もが何かしら赤い物を身に付けていたからだ。私は箪笥に眠っていた明るい色の着物に赤い帯を合わせることにした。結婚式に参加される方の中に、戦争で日本に対し辛い思い出のある方や反日の方がいらっしゃるなら、和服は不快に思われるのではないかと、事前に彼女に相談したところ、
「互いの文化を尊重し合っていくことが大切です。ぜひ、着てください。」
との返事だった。

といっても、恥ずかしながら、この年になるまで、自分一人で着物を着たことがない。それでも、日本企業も少ない砂漠の都市で日本語を教えている木木と、学んでくれている大学生達に感謝の気持ちを抱き、どうしても和服で参加したいと思ったのだ。出かけるまでの一ヶ月余り、九十を過ぎた隣のおばあさんに助けてもらいながら、何とか一人で着られるようになった。多少着方が間違っていても、中国では誰も気付かないだろうけれど。中国の結婚式に招いてもらったおかげで、私自身が日本の文化を一つ習得したわけだ。

次にお土産だ。彼女が日本語や日本の文化を教えていることを考え、授業で使えそうな物をあれこれ集めた。家にあった日本人形、たこ焼きやお寿司等の食品サンプルや書籍。木木が希望したのは日本の手帳だ。中国には使いやすい物がないらしい。

姉にも協力を頼むと、日本手ぬぐいとお多福のお面をくれた。姉は、
「日本の物を探したんだけどね。こうして見ると、元々は中国から伝わって来た物が多いことにびっくりしたわ。」
と言う。確かにその通りだ。

さらに夫の発案で、今までの私たちと木木の写真を集めて、簡単な写真集を作った。天津のアパートに来てくれた時、一緒に秋葉原やお台場の賑やかさに驚いているところ、家に遊びに来てくれた時に出かけた明治村や名古屋城での写真。このアルバムは、木木が心から喜んでくれたプレゼントとなった。こうして写真を整理することは、私にとっても出会ってからの月日をもう一度旅する時間となった。

五月十五日、私たちはわくわくをスーツケースいっぱいに詰め込んで、中部国際空港を飛び立った。北京経由で銀川まで約六時間、銀川空港にはもう一生会えないかと思っていた木木が、満面の笑顔で待っていてくれた。優しくふわっとハグされると、日本の挨拶とは違う、特別な親しみを感じ、会えなかった時間が吹き飛んだ。

ホテルに案内してもらい、部屋に入ると、テーブルに彼女からの温かいメッセージカードと、中国の結婚式には欠かせない「喜飴」というキャンディーがいっぱい置かれていた。きめ細かい心遣いに胸が熱くなる。

私たちが銀川に滞在できたのは四日間のみで、移動を考えると実質二日半。その間に、私たちは四度の祝宴に参加することとなった。到着日の歓迎会、翌日土曜日が正式な結婚式、さらに次の日の昼には新婦両親が主催する、里帰りのお祝いを意味する「回門の宴」、そして夜には送別会である。中国において、結婚式がいかに大きなイベントであるか実感すると共に、至れり尽くせりの接待に恐縮するばかりだった。

結婚式当日、披露宴はホテルで昼に行われるが、午前中は新婦の家で中国独特の風習があるという。私は早朝から慣れない着物の着付けに奮闘して出かけた。

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