古橋 龍也
「お知らせがあります。月曜日から一泊で箱根に旅行する事が決まりました。」
週末、仕事から帰宅した母が言った。これは、まさかの展開だ。夏休み、両親の休みも合わず、僕は部活漬けの日々。しかも、夏休みの宿題が何ひとつ手付かずの状態であったから旅行なんて連れて行ってもらえるはずもなかったのだ。それに、大きな問題があった。僕の家には、犬が居る。この犬をどうするかであった。時期はお盆休みのまっただ中。ペットホテルの空きなどあるはずがない。宿泊予定のホテルはペット同伴不可だがしかたなく、連れていくことにした。なんとかなるだろう。楽しみだけど、この旅、どうなるのか。
高速道路のサービスエリアに立ち寄りながら、箱根を目指す。サービスエリアには、ドッグランがあり、犬の散歩も可能である。
心配した渋滞に巻き込まれることもなく、スムーズに芦ノ湖へ到着した。箱根ロープウェイはゲージに入れてならペット同伴が可能だ。チケット売場の係員さんは、ていねいに説明してくれ、ゲージもレンタルすることができた。近くに居た観光客の女性が
「今日は富士山、見えないわね」
と言った。
「この季節は富士山見えませんよ。富士山見るなら冬、また来て下さいねぇ」
と係員さんが言う。
大湧谷までのロープウェイの中で一組の御夫婦と一緒だった。最初はお互い話すこともなく、景色のすばらしさに感動していたが、しばらくして
「どちらからですか?」
と声をかけられた。
「浜松からです。どちらからですか?」
「岡崎からです。」
「まぁ、そうなんですか。」
「私たち結婚三十周年なんです。それで、旅行しているんです。」
「それはおめでとうございます。」
普段から、見知らぬ人と話す事ことが苦手な母が、笑顔で楽しそうに話している。お互いの夫のことや子供たちのことまで、話はどんどん盛り上がる。瞬く間に大涌谷に到着した。お互いに別れを言う。もう二度と会うこともない人たち。次に会っても顔も覚えていないであろう。その出会いに、以外な母の一面を見て、僕は少し得した気持ちになった。
大涌谷では、いやどこの観光地でもそうだと思われるが、外国の人々がたくさんいる。そんな外国人の人たちに、我家の犬が大人気だったのだ。我家の犬はスピッツである。なかなかの美人だと僕も家族も思っている。彼女は静かに伏せているだけなのに、ひっきりなしにシャッターの音がする。それを見て、僕たち家族は、少し驚きながらも、嬉しくもあった。他にもワンコはたくさんいたけれど我家のワンコだけが、そういう状況だったから。その後、遊覧船に乗り、関所なども見学し、湖畔でゆっくりとしたりして、ホテルに向う。犬を連れて来たのは、ホテルには伝えていなかった。犬は、車の中のゲージで一晩過ごさせることにしていた。夜なら車の中の気温も暑くなることもなく、大丈夫だと考えた。それに、我家の犬は、無駄吠えをしないから、他に迷惑は掛けないとも考えた。
ホテルに到着し、駐車場の案内をされ、チェックインをする。部屋に入り、荷物が届き、くつろいでいたら、部屋の電話が鳴った。
「車を駐車した場所は、風の流れがない場所なので、同伴されたワンコが心配です。今、風の通る場所を確保したので、よろしければ車を移動されてはいかがでしょうか。」
という内容だった。犬を同伴していることはチェックインの際にも伝えていなかった。ホテルに着いた時、案内を聞くために窓を開けた少しの間に、係の人が犬のことを見つけ、心遣いをしてくれたのだった。
お陰で、地下三階から、駐車場入口間際の風の通る場所に車を移させてもらい、心配も軽減することができた。
「ホテルの出入は二十四時間いつでもできますから、時々は、様子を見に行ってあげて下さいね。夜の散歩もよいですよ。」
夜、ホテルの近くを犬と一緒に散歩した。車の通りはあるが、それぞれのホテルが美しくライトアップされ、人通りも少なく、ゆっくりと散歩を楽しむことができた。犬も、快適に一晩過ごすことができた様だった。
それぞれの客の様子を見て、その客がどうすれば快適に過ごすことができるか、客のプライドを傷付けることなく、サービスを提供できるか、ホテルマンは、すごいなぁと思った。何気ない心遣い。何気ない言葉にも心からの気遣いが伝わって来て、子供の僕たちでさえ、気持ちよく、心地よくさせてくれる。
チェックアウトの時、ゲートの所で見送ってくれた。とても素敵な笑顔で「いってらっしゃいませ!!」と言ってくれた。
僕はまた、ここに来たいと心から思った。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。