志賀 晶穂
静かな街並みが続く中、突然現れたそれを目にした時の衝撃は今でも覚えている。周りを高く、ぶ厚いレンガの塀で囲まれ、一見、外から入ろうとする者を拒むようにも見えた。レンガ造りのその建物−富岡製糸場は、夏のぎらぎら照りつける太陽の下でも全く動じない、という様子でそこに建っていた。
昨年の夏休み、私は家族で群馬へ旅行に行った。初め、「富岡製糸場へ行こう」と言われた時は「えっ、富岡製糸場って今も残っているの?」と、建物が残っていることさえ知らなかった。学校の教科書に載っているのは富岡製糸場の絵だけだったので、はっきりしたイメージというものはなかった。しかし、実際に建物を目にした時は、まるでそこだけ時間が止まっているかのようだった。周りの風景には一切溶けこまず、だがしかし堂々としたその姿に私は思わず息をのんだ。
そもそも何故、この富岡に製糸場がつくられたのだろうか。まず第一に、養蚕が盛んであったことが挙げられる。また、水や燃料が確保でき、さらには住民が外国人指導の工場建設に同意したことも理由のひとつだ。富岡製糸場は明治5年の操業開始から昭和62年の操業停止までの約115年間、つまり一世紀以上、休まず生糸の生産を行った。明治維新を迎えたばかりの日本は、輸出品の要であった生糸の品質改良と大量生産が可能である官営工場としてこの富岡製糸場を建設し、機械による糸取りの技術を伝授するためにフランス人を雇った。工場を設計したのもフランス人であったため、建物は洋風なつくりになっており、その建築技術の高さによって今日も明治とほとんど変わらない姿で残っているのである。高度なヨーロッパの技術を導入する、という明治維新の方針に強く影響されているのだな、と建物を見て改めて感じた。
ガイドの方に敷地内を案内して頂いた。ここでもやはり目にとまったのは、あちらこちらに施されている工夫された建物のつくりだった。敷地内には、繭を保管しておく二つの大きな倉庫、女工たちが糸をとる繰糸場のほかに、フランス人女性教師の寝泊まりする建物などがある。これら全ての建物のつくりがそれぞれの用途、目的に合わせて工夫されているのだ。例えば繰糸場は、たくさんの機械を置いて、できるだけ多くの女工たちが働くことができるように、縦は約140メートルにも及ぶ、細長い建物になっている。さらに屋根を支える骨組みには、トラス構造という工法が用いられている。トラスとは建材を三角形に組み合わせたつくりのことで、梁を支える中間の柱がいらないため、広い空間が使えるのだ。この天井の三角形の骨組みは、教科書に載っている繰糸場の絵のなかでもかなり印象的だったので、実際に見たときはとても感動した。また、繰糸場のいたるところに吊るされている小さなボードには、白いチョークでいろいろな数字や記号が書きこまれていた。これは操業していた頃に書かれたもので、今も残っているのだという。他にも、操業停止直後の姿のままで残っているたくさんの機械や、糸とりに使う道具があり、やはり時間が止まっているような感覚がした。少しでも触れたら動き出すのではないか、と思うくらい、それらは年月の経過を思わせなかった。
そしてもう一つ忘れてはならないのは、この富岡製糸場で働いていた女工たちのことである。彼女たちの大半は士族出身の若い娘で、それぞれ自分の故郷に技術を持ち帰り、全国で製糸業を盛んにする、という目的でこの富岡に集められた。全寮制で朝から夕方まで仕事をし、夜は勉学に励むという忙しいスケジュールの中でも彼女たちは、国の産業発展のためを思って数年間修行を積んだ。そして研修を終え、故郷に新しく作られた製糸工場で中心となって活躍したのである。日本の製糸業を発展させたのは富岡製糸場の若き女工たちであった、と言っても過言ではないのだ。自ら責任感をもち、決意をもって製糸場で働いた彼女たちに、同じ世代として、女性として尊敬の念を抱いた。
富岡製糸場は現在、国の重要文化財に指定されている。そして今、世界遺産候補のリストにも名前が上がっている。殖産興業の先がけとして当時の日本において大きな役割を果たしたこの製糸場のことを、世界のより多くの人に知ってもらいたい、そう思った。
私がその日自分の目で見た歴史が、技術が、世界に認められるのはいつだろう。待ち遠しい。
●教科書で見たことがあるこの場所に実際に訪れてみたら、想像していた以上にたくさんの感動があった。細やかな建物の造作もさることながら、当時、筆者と同世代の女工たちが全国から集まり、その技術を学んだことに思いを馳せる。
●建物の重厚感、工場としての質感が伝わってくる。当時の女工と同世代の学生として、産業遺産を通じて学んでいる姿勢がうかがわれる。
※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。