JTB交流創造賞

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交流創造賞 一般体験部門

第9回 JTB交流創造賞 受賞作品

最優秀賞

百年の時を越えて
−朝鮮鉄道職員の子孫韓国へ行く−

中田 朋樹

大邱の南に位置する盆地の町、清道で過ごしたうららかな春の1日は、今思い出しても何か奇跡のように感じられる。

春の日差しを浴び、辛夷の花を見上げながら、私達は清道駅から内地人小学校のあった場所まで、金さん一家の案内でのんびりと散歩をした。母は幼い頃の父親の息吹を感じられて嬉しい、と祖父の写真を見せながら金さんに感謝の言葉を繰り返し、金さんも目を細めながら、
「こうやって子孫が集まって追憶をするというのは素晴らしいことですね」

と言葉を返す。

散歩で適度にお腹を空かせた後は、金さんが予約してくれた山菜料理の店に移動して、芹、桔梗の根をはじめ十数種類にも及ぶ山菜料理の定食に舌鼓を打った。焼酎も出され、文字通り日韓交流の大宴会となったこの昼食の費用を、金さんはどうしても受け取ってくれず、結局私達は全てを御馳走になってしまった……。

昼食後は曾祖父が駅長をしていた南省峴駅に移動した。ここは大邱に向かうトンネルの入り口に近い谷間に位置する小さな駅で、曾祖父の赴任当時、新トンネルが完成して線路の位置が変わったことを、祖父が克明に記録している。

駅前で写真撮影をした後、金さんはずんずんと事務室に入って行き、駅長に手土産を渡して親しげに何か話し出した。聞いているとどうやら1週間前にも金さん父娘はここを訪れ、話を通しておいてくれたらしいのだ。慶尚道訛りの聞き取りにくい問答の後に、駅長は、
「やっぱり今残ってるのはこれだけです」

と言って1枚の紙を私に手渡した。

それは端の方がかすれたコピーで、標題に漢字で「歴代駅(所)長」と書いてあるのが辛うじて読み取れる代物だった。だが、その下の表、3と書かれた数字の横に、漢字のハングル表記で紛れもなく「酒井長太郎」と書かれているのを見た時、私は思わず声を上げてしまった。それは、90年前に朝鮮のこの谷間の駅で働いていた曾祖父の痕跡が鮮やかに立ち現われたことへの、鋭い感動であった。

私は皆に紙の内容を説明した。私達はしばらく、厳粛な気持ちでその場に立ち尽くした。

駅長は気さくな人で、おそらく暇でもあったのだろう、曾祖父の赴任当時にあった線路の切り替えについて説明し、駅から15メートル程登った所にある旧線路の跡地まで私達を案内してくれた。

それで私達は、眼下に新線路の通る谷間を見下ろしながら盛り土の上を歩いて、1904(明治37)年、日露戦争に合わせて突貫工事で掘られた旧トンネルに行きつくことができた。午後になっても空はぬけるように青く、その下には金色の連翹が燃えるように咲き乱れていた。

京釜線旧トンネルは、清道特産の柿を使ったワインの貯蔵庫兼販売所に転用され、ちょっとした観光地になっている。至る所に柿のレリーフが飾られ、車でやって来た観光客がそぞろ歩いていた。トンネルの中もイルミネーションで飾られ、売店脇のテーブルでは、かなりの数の人々が柿ワインの試飲をしていた。

入り口上部の石板には「代天成功 明治37年 陸軍中将寺内……」という文字がかすかに残っていたが、それに注目する人はあまりいないようであった。
「ここが日本によって作られたってことは、あまり気にしていないのかな」

伯父は不思議そうに言い、私は
「ええ。でもそれでいいんですよきっと」

と答えた。

またもや金さんが買ってくれた柿ワインで、私達はお別れの乾杯をした。それから黄色いマイクロバスに乗り込み、東大邱駅でしばらく名残を惜しんでから、再会を約して別れた。安君もここから故郷の浦項に帰省することになっていたため、ソウル行きのKTXに乗り込んだのは、日本人8名だけであった。

その日の夜は、安君の彼女が電話で予約しておいてくれた韓国宮廷料理の店で身内だけの夕食をとった。その席上、従妹がこんなことを言った。
「実は韓国に来るまで、少し不安だったんだよね。うちらの世代には結構嫌韓の子も多くて、ネットもそうだけど、実際友達に、韓国の物が映っただけでチャンネル変えるって子もいるから。でまあ、自分の目で確かめようと思って来たんだけど、本当に想像以上に良い人達ばっかりで、食べ物も美味しくて、やっぱり自分の目で見て判断することが大事だって、しみじみ思った」

親世代はピンと来ない様子で、
「ええ、そんな人多いの?」

というような反応だったが、私は彼女の言うことが良くわかった。日本でも韓国でも、目を覆うような言説が溢れかえっていることを、最近肌で感じていたからだ。

歴史に鑑みても、信頼から憎悪への転換はごく容易に起こる。それに対して、憎悪を信頼に変えるには、長い時間を必要とする。例えば生理的に朝鮮人が嫌いだった祖父と私の年齢にはおよそ70年の開きがあるように。

だから私はこの従妹の発言を聞いて、今回の旅行を企画して本当に良かったと思った。この機会を与えてくれた伯父や母に、サポートしてくれた韓国の友人達に、心から感謝の気持ちを持った。

私が尊敬し、愛情を抱いている韓国朝鮮と祖国日本が再び悲しい対立に陥らないためには、偏見に囚われず、自分の目で真実を見る人を一人でも増やすことが何より大切だと、以前にも増して強く悟ったからである。

翌3月26日、金浦空港から私達は帰路に就いた。

2013年に行われた朝鮮鉄道職員の子孫による父祖追憶の旅は、かくして成功裡に幕を閉じたのであった。

評価のポイント

祖父の生誕100周年を記念し、かつて祖父一家が生活していた韓国へ一族8人で旅をすることになった筆者。筆者の友人や地元の方々の温かさに触れ、祖父の追憶の旅は大成功で終える。旅を通じて今に生きる人々が協力し歴史の記録を発見した事からは、旅の意義の深さを改めて感じる。また、次から次へと絵が浮かんでくるようなリズム感が、読む側の心をつかみ、ドキュメンタリー映像を観ているようである。家族と旅と歴史が今につながることがうまく表現されており、まさに「交流」と「文化」と「体験」を具現化した作品である。

※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。

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