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小さな村のコンサート
能勢 健生
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今年2011年7月15日、岡山県新庄村の中学校音楽ホールで「小さな村のコンサート」が開かれた。第6回目の開催になっていた。今年は3・11の大震災により、コンサートの開催が一時危ぶまれた。しかし「東日本大震災チャリティー」にしようということで、例年より遅らせての開催となった。多くの村人がコンサートを聴きに来てくれた。

私は現役引退をきっかけに、まだ行ったこともない日本の小さな村や離島を巡ってみようと思い立った。とはいうものの、最初は妻に海外ロングステイにでも出かけて行ってみようかと提案。そして下見ぐらいはしたほうがいいだろうとタイのプーケットに出かけていった。しかし、言葉の問題、気候への順応、食べ物、病気になったら、友達がいない、ホームシックに陥ってしまったなら、などいくつもの問題があることに気付かされたのだ。そこで考え方を切り替えて、国内ロングステイならそうした問題は一挙にクリアできると、海外から国内へと方向転換することにした。私は普通のサラリーマンだったが、58才で早期退職した。そして、目の前にある時間を無駄にするのはもったいないと、重い腰を上げることにしたのだ。名所旧跡などを巡る単なる観光旅行ではなく、訪れた土地土地で一ヶ月くらいは滞在してみようと思いたったのだ。まだ元気、まだ好奇心もある、老け込む年齢でもないと一念発起したわけである。この提案にも我が伴侶は最初のうちは家を長期間空けることになる、とあまり乗り気ではなかったのだが、全行程は難しいが半分ぐらいの日程ならと同行を快諾してくれた。旅は道連れというが、今では旅の相棒は妻が最善であるようだ。そして、この旅がその後の私に思わぬものを残してくれたのである。

最初に訪ねたところは沖縄本島から北西25キロほどの海に浮かぶ小さな伊是名島だった(2005年5月)。宿泊場所は何とも殺風景な村の公民館の一室だった。島にやってきて二日目、よろず屋さんのおばーとの会話が切っ掛けで琉球風の古民家を格安で一ヶ月間借りることができた。村人の親切と幸運に恵まれたことになる。まだ観光化されていないその島は琉球時代の面影をそこここに残していて、歴史も古く、人情も厚く、山も海も想像をこえる美しい島だったのだ。マイナーと言えば実にマイナーな島だったが、日本にはまだまだこうした知られていない場所がいくらでもあるに違いないと実感した。

沖縄の離島は海に囲まれていたので、二つめの滞在場所は一転して山里がいいと漠然とした思いを巡らせていた。沖縄から自宅に戻り、ご近所の方から得た情報がこの私の考えとピタリと符合したのだった。二番目の候補地としてあがったのが、岡山県真庭郡の北にある新庄村という小さな村である。すぐ隣は鳥取県。中国山地の深い山懐に抱かれている山紫水明の村だった。農業と林業が中心で、人口は1000人ほど。沖縄の離島もそうだったのだが、ここも高齢化が進み村の人口も減る傾向にある。開発の波はまだ押し寄せていなく、この山深い新庄村は「日本で最も美しい村連合」の一つにも数えられているのだ。

岡山県新庄村は陸続きということもあり、自宅から妻と車で新庄村に向かうことになった(2006年4月)。四月の中旬から五月中旬までの一ヶ月間、新庄村の寄宿舎にお世話になった。この村は昔は雪深いところで小・中学生が冬の期間だけ学校のそばで寄宿生活を送っていた施設だったが、今は新庄村を訪れる人達のための宿泊施設になっているのだ。

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民家が建ち並ぶ村の中心には旧出雲街道が走っていて、がいせん桜通り呼ばれるその道筋は村人の自慢の一つになっている。道沿いの両側には130本ほどのソメイヨシノ桜が植樹されている。このがいせん桜通りという名称は、日露戦争戦勝を記念して付けられたと聞いた。だから、植樹されてから百年以上が経過している桜の木々はどれも侘しい老木古木になっている。そして、その幾本かの幹には包帯がまかれ、ピートモス(水苔)が詰め込まれるなどの治療が施されていた。

出発するまえから「がいせん桜通り」の桜はみごとだと教えられていた。到着した時期は四月の中旬だったのだが、標高が高いせいもあり、桜はまだ固い蕾の状態だった。一週間が過ぎるあたりから桜の花がほころびはじめ、ゴールデンウイークまえには満開を迎えた。時間がたっぷりある私たちは毎日のように「がいせん桜通り」を歩き、開花を喜び、満開を堪能し、散り際を楽しみ、葉桜になるまでの約一ヶ月間この通りを満喫させてもらうことができたのだった。

私は一ヶ月滞在の旅に出ることを何人かの友達にも知らせていた。その中の一人が、自分も時間を作って訪ねていきたいと言ってきたのだった。彼は小学校時代からの友で、歴としたサラリーマンだがアマチュアながらバイオリン奏者でもあった。彼は休みをやりくりして新庄村にやってきてくれた。彼から、バイオリンを持参してもかまわないかとの質問が。なぜならば、帰ってから東京で仲間との演奏会があるのでその練習を怠りたくないから、がその理由だった。

村での滞在をはじめて何日かが過ぎると、徐々にではあるが知り合いも増えていった。村役場に勤める人からは村の歴史を、村の駐在さん夫婦から毎日のようにサイホンコーヒーをご馳走になり、教育長さんと村に移住してきた若い家具職人とは酒仲間になり、などなど一ヶ月滞在者の私にいつしか知り合いの輪が広がりはじめていたのだった。


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※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。