ようやく地図に描かれた辺りに辿り着くと、血眼になって店を探す。ふと、サンドイッチ店が目に留った。店の名前は「ノーザン・アイルランド」。これまた惜しい名前ではないか。でも店に飛び込んで聞いてみる。「あの、あの、ここはノース・カフェではないですか!」
ゼイゼイ息を切らして飛び込んできた東洋人の私を見て、店員のおじさんだけでなく店内の客も皆驚いて私を見つめた。「いや、ここはノーザン・アイルランドだ。何を探しているの?」「会社の近くにある、ノース・カフェへコーヒーを買いに来たのですが、お店が見つからなくて」「会社はどこにあるんだい?」「Wストリートです」「えっ、Wストリートだって?」店内にいた男性客が驚いて首を横に振った。「あなたは大分遠くに来たようだよ。Wストリートの近くにある筈なら、この辺りにはその店はないと思う」店のおじさんは哀れそうに私を見て言った。そうだったんだ、私ってば、そんな遠くに来てしまったのか……。
呆然として店を出ようとした私に、店のおじさんはサッとグラスの水を一杯差し出してくれた。「ずいぶん走ったんだね、顔が真っ赤だよ。Wストリートの付近なら、いいコーヒー・ショップがあるよ。ザ・ドーナツ。あそこのコーヒーで、十分じゃあないか」「ザ…… ザ・ドーナツ……」 呟きながら、その瞬間、頭の中で、ぐるぐる色んな事が駆け巡った。
本当だ、あそこのコーヒーで十分じゃない。お客が待っているんだもの、どこのコーヒーだって良かったのよ。内田さんだって絶対そこでないといけないとは思っていないはず。どうして私、こんな遠くまで走って来てしまったのかしら。
慣れない外国で初めて頼まれたお使いごとに、私はすっかり自分の冷静さを失っていたのだった。そしてそう気づいた瞬間に、サーッと血の気が引いた。「君、大丈夫?」
店のおじさんに心配されて、私は無言で頷きながら、「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせた。貰った水を一気に飲み干し、シャツの袖をまくりあげた。戻ろう!「ありがとうございました!」
おじさんにお礼を言い、店を飛び出して私は走りだした。あの、一番近くにあったザ・ドーナツへ。
ちらりと時計を見ると、もう三十分近くが経っていた。絶対、会社の人達はイライラして待っているに違いない。すると、突然私の前方に停まっていたロイヤル・メールの赤い郵便車が、プ、プと警笛を鳴らし、車の窓からおじいさんが顔を出した。「君、君!さっきWストリートの方で走っているのを見たよ。一体何かあったのかね。どこか探しているの?」
どうやら私が走り回っているのを見て不思議に思ったようだった。一瞬、私は「ノース・カフェ」の名前を口にしそうになりながら、「あ……Wストリートへ、戻るんです!ご心配どうもありがとう!」
郵便車のおじいさんに手を振って、ひたすらまた疾走した。そして、あの「ザ・ドーナツ」へ飛び込んだ。「あの、あの……」
もう息が苦しくて、なんて言っていいのか言葉も出ない。そこへ、まだカウンターにもたれかかっていたあのブドウのおじさんが、うんうんと頷きながらまた私の口にブドウを突っ込んできた。「それ食べて、さあ、歩いて会社へ戻らないとね。コーヒー零さないようにね」
モゴモゴして何も喋れず突っ立ったままの私に、ポニーテールの店員のお姉さんが、優しく微笑んでこう言った。「コーヒーは、二杯って言ったかしら?」
もうコーヒーが注がれて持ち帰り用のカップを手に見せられた瞬間、口の中のブドウがジワーッと酸っぱく感じた。酸っぱい味を飲み込んで、手に握り締めてくしゃくしゃになった十ポンド札をお姉さんに渡しながら、ようやく「どうもありがとう!」と言えた時、私の目から涙がこぼれてきた。
すると、またブドウのおじさんがブドウを口に入れようとしてきたので、初めて私は「もう、結構よ!」と笑って答えた。
そうして私は二つのコーヒーを抱えて会社へ戻った。零さないように、歩いて。会社へ帰ってきた瞬間、皆がワッと駆け寄ってきた。「大丈夫? 内田さんは心配して探しに行ったよ。迷子になったかもって。なんか、ノース・カフェって三日前に閉店していたみたい。あなたに悪かったって言っていたよ」
そ、そうだったんだ……。肩の力がフワーッと抜けて、私はその場に座り込んだ。「さあ、そのコーヒーお待ちかねだから、持って行くわね」
無事コーヒーが社長とお客の元に届き、内田さんも戻ってきた。遅くなってすみませんと謝ったが、内田さんも「こんなこと頼んで悪かったわ。無いお店を探させて、ごめんね」と言った。
でも、私は見つからないお店を求めて彷徨った結果、今まで見えなかったものに触れられたような気がしていた。慣れない外国で要領悪く行動する私を温かく見守り、助けてくれたのは紛れもなくロンドンの人たちだった。あの人たち一人一人にとっては何でもない出来事だったとしても、私にとってはそれぞれの心づかいがとても優しく、大きく、またロンドンでの滞在を続ける私に勇気を与えてくれた事件だったのだ。今はもう私は日本へ帰国してしまったし、またロンドンを訪れたとしてもあの人たち一人一人に遭うことはない。でもいつでもロンドンでの生活を思い出す時、「あんな事があったな」とコーヒーを求めて走った出来事と共に、彼らの事も必ず思い出すのだ。
ささいな事で必死だった私に手を差し伸べてくれた事、そして今でも温かい気持ちを蘇らせてくれる事。ロンドンの人たちは、クールを装って本当は親切。都会の中にも隠れた人情があったのだ。助けて下さって、本当に、どうもありがとう。
余談だが、社長はザ・ドーナツのコーヒーを気に入り、その後はすっかり贔屓にしているようだ。
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