場所はロンドン。私はこの大都会のど真ん中にある日系出版社で、数か月の契約でインターン留学生として働いていた。平日は語学学校と出版社での仕事、そして週末は蜂蜜色の美しい田舎町を散策し、スコットランドのミステリアスな遺跡を巡る旅に浮かれた。旅の途中はささやかな人とのふれあいもとるに足らないエピソードも、スーツケースに詰め込めないほど溢れていたと思う。
しかし、ロンドンはそうではなかった。ここは都会、東京と同じように人が多い。そして田舎と違って目があったからと言って挨拶を交わすわけでもない。ロンドンの人は皆クール。なあんだ、田舎はともあれ、都会ってどこも似たような人間関係なのね、そんな感じだった。
ある日のこと、出社した私を社員の内田さんが呼んだ。社長のお客さんが間もなく来社するから、コーヒーを二人分買ってきてほしい、という頼みだった。当時その会社にはコーヒー・メーカーが無く、コーヒーを飲みたい場合は近所のコーヒー・ショップで調達していたのだ。「社長がコーヒーにうるさいから、そこのザ・ドーナツじゃなくて、二つ目の角を曲がって三件目のノース・カフェがいいわ」内田さんはそう言うと私に十ポンド札を握らせ、私は急いで会社を飛び出した。
二つ目の角を曲がって三件目……そんなに遠くない場所に「ノース・カフェ」はある筈だった。そして、私は既にその場所に来ている筈だった。「あら?ない……」思わず呟いた。確かに二つ目の角を曲がって三件目に来たのに、「ノース・カフェ」の看板は見当たらなかったどころか、その一帯にはコーヒー・ショップらしきものは一つも無かったのだ。
もしかしたら、三つ目の角の通りかもしれない。そう思って、三つ目の角を曲がった通りに入り、走ってそこら辺一帯を探す。ノース・カフェ、ノース・カフェ……無い!もしかしたらもしかしたら、四つ目の角の通りかもしれない!そう思って四つ目の角の通りにも入って探してみたが、私の期待は見事に裏切られた。どうしよう、どうしよう。
走って元の角まで戻ってくる。その時既に時間は十分経過。大切な社長のお客がもう来る頃なのに、コーヒーの店が見つからない!焦った私は、目に入ったコーヒー・ショップに走り、飛び込んだ。その店は「ザ・ドーナツ」だった。「この辺にノース・カフェという店はありませんか?あの、コーヒー二つ、買わなきゃいけないんです」
息を切らせ、渡英したばかりでまだ英語が下手な私ではあるが、焦ってもいたし、一生懸命言葉にした。「さあ、聞いたことないわね。うちの美味しいコーヒーじゃ駄目なの?」
ポニーテールの可愛いお姉さんはお茶目な口ぶりで言った。「だって、だって、ノース・カフェのコーヒーを買ってこいって、言われたから……」
いよいよ焦ってきた私は、身振り手振りも激しく、誰の目から見ても必死な様子だったらしい。カウンターに肘を付いてもたれかかり、スーパーの袋からブドウを出してつまんでいた無精ひげのおじさんが、「まあまあ、お嬢さん、落ち着いて。どうしたのかね」
と言いながら、突然私の口にブドウを押し込んできた。余りの突然の事に何の抵抗もできず、そのまま口に入れられたブドウをモグモグしながら、「ノース・カフェが見つからなくて、困っています。社長のお客さんに出すコーヒーなんです」とだけ言った。分かった、分かった、と頷きながら、おじさんはまたもや私の口にブドウを押し込んだ。そしてニッコリ笑って、「ほら、彼に聞いてごらん」と指さした。ちょうど、店の入り口に入ってきた華奢な若い男性が、やけに女らしいしぐさで店員のお姉さんに挨拶していたところだった。男性は腰に櫛や美容用のハサミらしきものを下げていた。一目瞭然なのはヘアスタイリストということだったが、加えて、彼の話しぶりで「オカマさん」である事も明快だった。「この辺に、ノース・カフェって店を知らないかね。このお嬢さんはその店を探し回って息も絶え絶えだよ」
二つ目のブドウが口の中にまだある私の代わりに、オーバーなくらい真面目な様子でブドウのおじさんが尋ねると、オカマのお兄さんは華奢な首を傾げて、長いまつげをパチパチさせた。「その店かどうか分らないけど、アタシ思い当たるところがあるわ。ついておいで」お兄さんは私を手招きした。「まあ、本当ですか!」大喜びでオカマのお兄さんについて行くと間もなく、雰囲気のよい店の前に出た。その店の名前は「サウザン・カフェ&バー」。ノース(北)ではなくて、サウザン(南)。惜しくも店の名前が違う。それでも聞くだけ、聞いてみよう。
オカマのお兄さんが「準備中」の店の扉を開けると、イタリア系らしき店員の男性が中で掃除をしていた。「あの、おたく、ここはノース・カフェじゃない? 小猫ちゃんが迷子なのよ」
オカマのお兄さんが私を見ながらそう聞くと、店員さんは苦笑いで「うちはサウザンだからねえ。でも、確かそんな名前のカフェがこの先にあったよ」「ほんとう!そこを、教えて下さい」私はすがる思いだった。その店員さんは親切に紙に地図を書いて説明してくれた。「まっすぐ行って、この角を左に曲がるとこの辺りにあったよ」「どうもありがとう!」 店員さんにお礼を言い、店に戻るというオカマのお兄さんにもお礼を言って、私は地図を手にまた走り出した。その場所は更に会社から離れた場所だったけれど、その地図を頼りに私は走った。後から思えば滑稽すぎるほどの要領の悪さだが、その時の私はまるで競馬の馬のように、突っ走ることしか頭に無かったのだ。
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