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カナートの村での約束
佑来 弘章
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カナートの村での約束の写真  国際協力のプロジェクトに関ってイランへ繰り返し出張をしていた時のことである。プロジェクトに一区切りがつき帰国の日が決まった私は、テヘランのホテルで出張期間最後の休日を迎えようとしていた。
イスラム国家であるイランでは、例え外国人といえども一切酒を飲むことが出来ない。街中にも酒を売る店は無く、つまりは居酒屋もスナックも、日本で通常大人が時間をつぶす場所が無いということで、毎日仕事が終わってホテルの部屋に戻ってもすることは何も無かった。
 不思議なことに酒が無いと外食産業全般が育たないらしく、街には料理を楽しめる水準にあるレストランが見当たらなかった。ホテルにはイラン料理のレストランがあったが、メニューは羊や鶏の肉を串焼きにしたキャバブとチェロウと呼ばれる油を入れて炊いた米の飯以外にはほとんど選択肢が無く、繰り返し食べると油の風味が鼻について喉を通らなくなった。仕方なく他の国の料理を探しても、例えば中華料理店に入ってメニューに書かれたヌードルスープを注文すると、スパゲッティを塩胡椒の味のする湯に入れたものが出て来るといった具合で、私は仕方なくホテルの近所にある雑貨屋でイランの主食であるナンと蜂蜜を買い、果物屋で手に入れた洋梨や柘榴などと一緒に食べてしのぐことにした。ナンは小麦と塩の素朴な味で、蜂蜜は六角形の巣型を残した固まりのままで力強い甘味があり、妙な外食をするよりも力が付くように思われた。
 日常がこのような様子だから、アミューズメントの類や観光名所が整備されているわけもない。休日となっても、せいぜい同じプロジェクトで出張しているメンバーと近くの公園で緑や季節の花々を見て、バザールで日用品を買って帰るくらいが関の山だった。
 「次の休みの日に、一緒にカナートを見に行きませんか」
 休日前のある夜、プロジェクトのメンバーで同じホテルに宿泊しているI氏が私の部屋にやって来て提案をした。
 I氏は地質の専門家であるが、髭面にワークシャツを着て時間の許す限り現地調査に力を入れたいという、学者肌というより自然を愛する山男といった人柄だった。休日になるとテヘラン近郊の山や高原を訪れ、岩や塩の結晶の欠片やらを採集しては満足げに披露するのが常だった。カナート、という言葉自体を知らず反応しようもない私に、I氏は機嫌よく説明を始めた。
 「イランには高山の地下水を運ぶのに、最初に井戸を掘って、そこから次々に井戸を掘りながら地下の横道で繋いでいって、その地下水路で水を砂漠まで持ってくる伝統的な技術があるんですね。その地下水路をカナートと言うんですが、ここから少し離れた郊外に昔からのカナートが残っている村があるらしいんです」
 I氏は日本から持参したという、イランのカナートについて解説した学術書を見せてくれた。本にはカナートのある村での農作業の様子や水路を写した写真が載っている。テヘランの南約30キロのところにあるターレババードという村だった。著者は長年カナートの研究を続けていたらしく、写真も30年ほど前に撮影されたものがほとんどのようだった。特に休日の予定もない私は、いいですよ、と承諾の返事をした。
 「テヘランを少し外れての調査になるから、Y女史に通訳を頼みましょう」
 Iさんは既にフィールドワークの血が騒いで仕方がないという様子だった。Y女史はプロジェクトチームの通訳をしてもらっている日本人女性で、本職は外国語大学のペルシャ語学科講師である。元々はペルシャ帝国であるイランでは公用語もペルシャ語で、テヘランの街中でも日本語はもちろん英語さえほとんど通じない。ましてやテヘランを離れた郊外となると到底ペルシャ語以外の言葉が通じるとは思えず、若いがしっかり者のY女史が同行してくれるのは頼もしかった。
カナートの村での約束の写真  翌朝9時、IさんとY女史、そして私の3人はホテルの前からハイヤーに乗りこんだ。ラジオもクーラーもついていない相当古い中古車だ。Y女史はいつものようにチャドルと呼ばれる足首まである黒いマントを着用して、白地にブルーの柄のスカーフで髪の毛を隠している。外国人といえども、イランでは女性はこの装いでなければ外出できない。気温40度を超える夏場では熱中症となる危険があったが、その日は10月末で、涼しさに肌寒さが混じるくらいの外出しやすい気候だったのは幸いだった。
 村に向かう前に、私たちはテヘランのはずれのバザールで飲料水代わりにアルミパック入りのフルーツジュースを買い込んだ。柘榴やチェリーなど日本では見かけないものも含めて実に多くの種類のジュースがあり、それらは禁酒になって仕事が無くなったワイン・メーカーが製造しているという話だった。バザールの中は古びた肌色のレンガで組まれたアーケードになっていて、昼間でも少し薄暗い。店々の入り口に吊るされた色とりどりの裸電球の光に照らされると、商品が何となく怪しく艶っぽく見えるのが不思議だった。
 バザールのアーケードを出ると、頭上には一転して高い青空が拡がった。車を走らせると間もなく町の建物は尽き、見渡す四方は茶色と灰色が混じった荒れ野ばかりとなった。ところどころ、海に浮かぶ小島のように緑の植物群が生えていた。植物は小さな刺々しい葉をつけた低木で、土埃と風と強い日差しに必死に抵抗しているように見えた。
 テヘランを出てから1時間余り、午前11時頃にターレババードの村に到着した。村の入り口には一面に薄茶色の砂地が広がり、その中に絨毯の切れ端を敷いたように緑の草地が広がっている。草地のところでは10頭ほどの山羊と羊がおとなしく草を食べていた。
 「ああ、あれがカナートの終点ですね」
 Iさんの指差す先には、荒野の中に唐突に出現した幅2メートルほどの水路があった。水路の周囲はコンクリートで固められているわけでもなく茶色の土が剥き出しになった素掘りの状態で、辺りには10人ほどの子供たちが遊んでいた。水路の端の土壁には直径1メートルほどの土管のような地下水路の出口が突き出ており、水路は浅くて流れも緩やかな様子で、子供たちの数人は股までズボンをまくりあげて水の中に足を浸していた。私は本の写真どおりの姿でカナートが残っていることに驚いた。


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※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。