手作り運営で成長した能登のジャズフェス
1989年8月10日、記念すべき第1回目のMJF in 能登は、七尾湾を望む和倉温泉シーサイドパークを会場に、本家MJFに出演したミュージシャンや、コンテストで選ばれたアメリカの高校生たちによるビックバンドなど招いて開かれ、その歴史の第一歩をスタートした。
とはいえ、開催後数年間のMJF in 能登は、イベントの成功に数多くの不安材料を抱えていた。七尾市民の多くはジャズに対して馴染みが薄く、地元でコンサートが開かれることも少ない環境だった。第1回では、クラシックの演奏会のように正装して訪れ、神妙な面持ちで演奏を聴く市民の姿が、会場のあちらこちらに見られたという。そんな地域で開かれるジャズフェスに今後も客は集まるのか。音楽イベント開催の経験がほとんどない中で、スタッフを揃え、運営体制を整えることはできるのか。継続的な開催に向けて、課題は山積していた。
しかし、MJF in 能登に関わる人々は、モントレーからの力強い応援にこたえるためにも、この催しを一過性のイベントに終わらせまいとする使命感に燃えた。時を同じくして、89年に「能登国際テント村」の催しが始まり、91年には七尾版フィッシャーマンズワーフとして、「能登食祭市場」が七尾港にオープンするなど、港町は少しずつにぎわいを取り戻し始める。そんな町の熱気に後押しされるように、音楽とふるさとを愛する人材が自然に集まって、縁の下の力持ちとしてイベントの運営を支えるようになった。
現在のMJFin 能登は、和倉温泉観光協会から引き継いで、2004年に発足した実行委員会が開催を取り仕切る。委員会のメンバーは、基本的に地元の有志によるボランティアであり、地元企業の協賛のもと、市民自身の手で作り上げるスタイルを貫く。スタッフ一人ひとりの情熱が、出演するミュージシャンや観客たちを巻き込んで、回を重ねるごとにイベントとしての評価や知名度も上がってきた。
04年からは七尾マリンパークに会場を移して、国内最長開催のジャズフェスティバルとして、全国から観客を集め、近年は3000人近い入場者数を記録している。街中にジャズを聴かせる店が増えてきて、市民にも少しずつジャズ文化が浸透しつつあるようだ。
音楽と人と文化を育てるまちづくり
MJF in 能登のもう一つの特徴は、音楽を通じた国際交流と青少年教育の充実を目標に掲げている点だ。
第1回から続けて出演している本家MJFのハイスクールバンドは、七尾市内を中心とする一般家庭にホームステイし、地域の人々と交流を持っている。卒業後にプロのジャズミュージシャンとなって、かつてMJFバンドでお世話になった能登の家庭を再訪したモントレーの元高校生もいる。反対に、88年に始まった「ジュニア・ウイングス・プログラム」では、七尾鹿島地区の中学生を毎年モントレーへ派遣して、現地でのホームステイ生活を体験させており、送り出した若者の数はすでに200名を超えた。このプログラムを経験した青年たちの中からも、MJF in 能登の運営に関わったり、地域振興に尽力する人材が生まれている。
ジャズそのものを教育に生かす試みも進んでいる。近年の学校教育の現場では、少子化の影響でブラスバンドが組めなくなった地域が増えているが、3〜4人でバンドを組めるジャズなら、生徒たちがもっと手軽に音楽に親しむことができるのだ。2006年5月には「石川ジュニアジャズアカデミー(IJJA)」が設立された。週1回、能登地区を中心に県内の中高生が参加して、プロのミュージシャンを含めた講師たちの指導を受け、MJF in 能登のステージを目指して演奏の腕を磨く。
かつて能登の若者は、広い世界を体験するには故郷を離れるしかなかったが、MJF in 能登を介して能登半島に開いた世界への窓は、地元の若い世代に国際人としての感覚と豊かな音楽文化に触れる環境をもたらしている。
現在の能登地区においては、地域の再生もジャズの普及も、まだまだ道半ばだ。だが、20年の歴史を刻んだジャズの祭典は、新しく生まれ変わろうとする七尾を象徴するかのように、盛夏の港町に音楽を響き渡らせている。かつて七尾を救おうと立ち上がった人々は、やがて太平洋を越えたモントレー市民の友情に助けられ、地域再生への道を模索していった。ジャズの祭典が教えてくれたのは、ふるさとへの敬意と異文化交流の大切さ、すなわち港町としての誇りだったのではないだろうか。
ふるさとの将来に尽くす人々の活動により、港町・七尾は着実に再生への道をたどっている。彼らの描く未来予想図が実現したとき、MJF in 能登のキャッチフレーズ通り、能登半島に世界に誇れる「ジャズの薫る港町」が誕生するに違いない。