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ふるさとへの誇りをのせて、港町にジャズは響く〜若者の熱意が生んだモントレージャズフェスティバルin能登の20年〜
モントレージャズフェスティバルin能登 実行委員会
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はじめに
ふるさとへの誇りをのせて、港町にジャズは響く〜若者の熱意が生んだモントレージャズフェスティバルin能登の20年〜の写真  本州から日本海に突き出した能登半島の中央部に位置する石川県七尾市には、万葉の時代から天然の良港として親しまれてきた七尾港があり、能登半島が夏祭りの季節を迎える7月の終わり頃、人口6万人余りに過ぎないこの小さな港町は、サキソフォンやトランペット、ピアノといった楽器が奏でるジャズ・ミュージックの喧騒に包まれる。
 2008年で第20回を迎えた「モントレージャズフェスティバル in 能登(MJFin能登)」は、毎年、国内外で活躍する一流のミュージシャンたちが出演し、今や日本のジャズシーンにおける風物詩の一つとして半島の町に定着している。世界三大ジャズフェスの一つであるアメリカ・モントレーの名を冠するこのイベントは、単なる音楽祭の域を超えて、かつては沈滞していた能登半島や七尾の町に新たな風を吹き込み、人を呼び込む原動力にもなっている。
 成功の裏側には、我が町に誇りと活気を取り戻そうとする地元経済人たちの熱意と、海を越えた港町同士の温かな交流があった。MJFin能登の歩みを振り返りながら、七尾市の人々が音楽文化を通じて実現した地域復興と国際交流の成果を紹介したい。


港町・七尾を襲った衰退の危機
 MJFin能登が開催される以前、1985年ごろの七尾市は、大都市圏を覆ったバブル経済の盛況を横目に、深刻な景気の落ち込みに悩まされていた。
 七尾と七尾港は、古くから能登半島の中心として栄えてきた。半島を大きくえぐる七尾湾は、奈良時代から波のおだやかな港湾拠点としてにぎわった。戦国時代に能登畠山氏が城下町を築き、江戸時代には加賀藩の軍艦や北前船が寄港した。明治維新後も、ロシアとの間に木材貨物船が定期運航し、太平洋戦争後の1960年代まで、石川県の海の玄関口として、取り扱う貨物量は順調に増え続け、港町は常に活気で満ちあふれていた。
 しかし、70年に金沢港が新しく開港すると、貨物の取引を奪われ、七尾港の貨物量は72年をピークに下降の一途をたどる。71年に起工した能登有料道路は、能登半島を縦断する基幹道路として計画されながら、当時の七尾の商業界などが有料道開通によるストロー効果を危惧したため、七尾市を外れるルートで82年に全線開通し、七尾地域は陸上交通においてもハンデを背負うことになってしまった。
 こうした要因が重なって、七尾市の産業や経済は全体的な地盤沈下を起こしてしまう。80年代を迎える頃、七尾市民は地域の将来に希望が持てなくなり、町には閉塞感とあきらめムードが漂っていた。


再生のヒントを求めてアメリカ西海岸へ
 だが、危機的な状況の中で、何とかふるさとの発展に活路を見出そうと立ち上がった人々がいた。七尾青年会議所に所属していた若手の経営者たちである。
 「生まれ育った七尾の町をどうにかして元気にしたい」との思いを抱いていた彼らは、85年に全国からまちづくりの専門家を講師に迎えて、「七尾鹿島市民大学講座」を開催した。会場には町の将来を憂う市民たちが真剣な様子で詰め掛け、講師との真剣なやり取りの中で、やがて七尾港を核としたウォーターフロントの整備が重要課題として浮かび上がってきた。港とともに歩んできたふるさとの歴史に気付かされ、港の再生に市民の暮らしと心の活性化を託そうと決意した青年たちは、ウォーターフロント構想の実現に向けて動き出す。
 しかし、横浜や神戸、博多といった国内の港町は、どこも人口や経済規模が大き過ぎて、とても七尾の参考にはなりそうもない。困り果てた彼らから相談を受けたのは、地元・和倉温泉の名旅館「加賀屋」の会長で、七尾商工会議所副会頭を務める小田禎彦だった。かつてアメリカ各地のホテルを視察した際に訪れたサンフランシスコ市のフィッシャーマンズワーフの光景を思い出した小田は、その当時から親交があり、現地で企業視察のコーディネーターを務めていたティム芦田に連絡を取った。
 そこで小田は芦田に、「かつて栄えていたが一度衰退し、その後再生した小さな港町を西海岸で探し出して、そこを視察させてほしい」と依頼する。芦田は厳しい条件に戸惑いながらも、地図を片手に港湾都市をしらみつぶしに調査した。するとたった一つ、それらの条件を満たす場所が見つかった。その都市こそが、人口3万人余りの小さな港町、モントレーだったのである。


モントレーとの出会い、ジャズとの出会い
ふるさとへの誇りをのせて、港町にジャズは響く〜若者の熱意が生んだモントレージャズフェスティバルin能登の20年〜の写真  アメリカ・カルフォルニア州、モントレー。サンフランシスコから約200キロメートル南に位置するこの都市は、高級リゾート地として年間780万人もの観光客でにぎわう。町の中心産業だったイワシ漁が衰退した後、美しい自然と素朴で落ち着いた町並みを売り物に、海と港を中心とした観光都市として再生を果たしていた。
 86年8月、小田を団長とする第1回アメリカ西海岸研修視察団は七尾を出発し、芦田のコーディネートのもと、サンフランシスコなど西海岸の各都市を訪問した。中でも、青年会議所の面々の心をとらえたのがモントレーだった。決して背伸びをせず、港そのものを観光資源として活用する姿に、彼らは目からウロコが落ちる思いを味わった。その後も、七尾からの視察団は毎年モントレーには必ず立ち寄って、市長をはじめとする行政や観光振興に取り組む民間のリーダーたちと交流を深めていった。
 一方で、モントレーにはもう一つの名物があった。同市では、年間に200件を超える各種イベントが開催され、誘客に一役買っている。中でも最大のイベントが9月の「モントレージャズフェスティバル(MJF)」だ。1958年から開催されている伝統の音楽イベントには、世界中から観客が集まり、3日間で地元に10数億円の経済効果をもたらしてきた。
 我が町にもMJFの盛り上がりを呼び込みたいー。モントレーをお手本に、新しいまちづくりがスタートした七尾市で、そうした声が挙がったのも当然だったと言えるだろう。地元の和倉温泉観光協会が「ジャズを和倉や七尾、能登の観光の目玉にできれば」との思いから、温泉街で開催している夏祭りに合わせて、MJFを誘致できないかと考えたのだ。だが、MJFは基本的に非営利の運営を貫いており、これまでにも日本企業が何度か誘致を試みたものの、要件を満たせずに失敗に終わってきた経緯があった。それを知った和倉温泉観光協会も、「駄目でもともと」の心境で話を持ちかけたという。
 ところが、MJFを運営する委員会は、この打診に対して、当の和倉温泉側が拍子抜けするほど、あっさりと開催を認めたばかりか、世界で初めて、本家以外に「モントレージャズフェスティバル」の名称を使用することまで許してくれたのである。ティム芦田は、モントレー側が示した好意の理由を「アメリカ人には、必死に頑張る人々に進んで手を差し伸べる精神が根付いています。故郷を愛する七尾の人々の熱意に、モントレーの人々が共感してくれたのでしょう」と分析する。こうして本家モントレーからの心強い応援を得て、MJF in能登の歴史はスタートした。七尾とモントレーの関係もさらに深まり、1993年までに青年会議所やロータリークラブなど、両市の8つの団体間で提携が結ばれ、95年にはついに姉妹都市提携を結んでいる。


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※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。