こへび隊の登場
しかし、上記の構想を6市町村の100人の議員の前で発表したところ、全員が反対であった。そのときの批判葛藤は並大抵のものではなかった。「過疎地の、農業をやってきた、お年寄り」の、「都会的な、現代美術、それも人の土地にものをつくる」というこのプロジェクトに対する懐疑、批判は、理屈で説得できるものではなかった。
この状況を突破するきっかけとなったのが、後に自ら「こへび隊」と名乗る若者を中心としたサポーターたちを登場させたことだった。4年をかけた説得も功をなさなかった。であれば、「都会の」「得体の知れない」「若い」という妻有の土地性とは対照的な性質を持つ人々が流動化を生むためのいわば触媒として登場させるしかないのではないか。最も異質な人、ものと出会うことで、新しいエネルギー、コミュニケーションが起るのではないか。そこで生まれる葛藤が沸点に達して動き出すものを期待しようと腹を決めることとなった。
2000年春からこへび隊は地域に入りだす。やがてこの出会いから発生した反撥、葛藤が、アーティストやこへび隊の学習や労働、熱意によって、共感、協働に変わっていった。地域がこれらの出会いによって流動化し、元気を持ち出し、地域・ジャンル・世代を超えた出会い、協働が生まれていったのである。
住民との協働
アーティストがある場所で何かをつくろうとしたときに、その場の所有者、関係者の了解をとらねばならない。地元の人は最初は猛反発する。そこでアーティストは自分が作品をつくることに対してコミュニケーションをとらざるをえない。「他者の土地にものをつくる」そこを出発点に、反感、批判、拒否から、学習、理解のプロセスが始まり、やがて、住民たちは、木を運んだり、土を練ったりと手伝い始める。住民は、「観客」としてではなく、協働者として作品に関わり、作品は、アーティストだけのものではなく、関わった住民たち自身の作品へと変質していったのである。
アートを介した里山発見の旅
こうして制作されたアーティストたちの作品は、里山の美しさを際立たせ、里山を見せる仕掛けになっていった。
昭和の大合併、車社会以前には、冬期の雪に阻まれ、越後妻有では約200の集落が固有の生活を営んでいた。大地の芸術祭では、地域全域の集落ひとつひとつにこだわった。作品を1箇所に集中的に展示するのではなく、集落をベースに作品を散在させ、多くの箇所をまわってアートを見られるようにした。それは、現代の合理化、効率化の対極にある徹底的な非効率化である。しかし、その非効率化こそが人間の五感を回復していく道程となったのである。
アートを道しるべに里山をめぐる。汗をふきふき山道を登り、やっとのことで発見するアート作品。来訪者はアーティストたちの優れたアイディアを見出すと同時に、それを囲む濃い緑のひんやりとした木陰や、眼下にまで続く素晴らしい風景に気付く。夏の暑さを含め、木々にわたる風のさわやかさ、濃密な草いきれ、足下から伝わってくる土の弾力。どこに行っても均質な空間であることに慣れた都市部住民にとって、人間の時間がそのまま積層した「里山」という空間は、五感を解放し、新鮮な喜びを与え、生の素晴らしさを全身に蘇らせてくれるのだった。そして夕暮れ、里山巡遊の末に辿りつく宿では、魚沼産コシヒカリの米どころならではの旨い食事と酒、温泉。訪れた人々は今までに味わったことのないマジカルミステリーツアーを体験するのである。
観光資源としてのアート
第1回では、32カ国146人、第2回では21カ国150人が参加し、会期後も130点の作品が残ることとなった。2000年に川西町に誕生したジェームズ・タレルによる「光の館」は、アート作品であるとともに宿泊施設である。日没と夜明けの光の変化を体感できるこの施設は国内外の旅行雑誌にも頻繁に紹介され、海外からも宿泊の申し込みがあるほどの人気スポットになっている。
アーティストによる宿泊施設はもう1軒ある。「夢の家」は、マリーナ・アブラモヴィッチが築100年の民家を改装したものである。宿泊客は、水晶の枕のついた木製のベッドで眠り、翌朝見た夢を備え付けの本に書き残す。宿泊者の行為そのものが作品となる作品だ。2000年の第1回展の際にオープンしたが、会期後は集落の人々が管理運営を行い、一昨年からは経営も黒字に転じた。
ポケットパーク事業の一環でつくられた公園も、重要な観光拠点である。フィンランドの建築家グループ「カサグランデ&リンタラ」が、産廃の不法投棄場となっていた釜川の堤防を、自然、農業、工業の3つの要素からなる美しい公園に変えた「ポチョムキン」は、住民が集会やお祭りにも使い、今夏、野外映画祭も催された。
こうした作品を掲載したアートガイドマップが発行され、会期後もまわることができるようになっている。大地の芸術祭でつくられた作品は、地域の重要な観光資源となっている。
農を介した都市と地域の交流:まつだい雪国農耕文化村センター「農舞台」
大地の芸術祭を一過性のイベントとして終わらせるのではなく、恒常的なまちづくりの活動へとつなげていくために、ステージは重要な拠点となっている。
2003年、松代ステージとして建設されたまつだい雪国農耕文化村センター「農舞台」は、ほくほく線まつだい駅南側に広がる約60haの里山(城山)にアートが散りばめられた“里山美術館”の中心となる総合文化施設である。「都市と農村の交換」というテーマのもとに、地域の資源を発掘し、外部に向けて発信する拠点としての役割を担っている。設計は、現在、世界で最も人気のあるオランダの建築家グループMVRDV。各施設はアーティストとのコラボレーションによって魅力あふれる空間に仕上がっていて、本来の用途に加えて現代アートとしても楽しめる。
1階のピロティー部分や2階の「農舞台ギャラリー」では、展覧会や音楽・舞踏・芝居などさまざまな催しを行い、地域の伝統芸能から都市部の前衛的な取組みまで、年間を通じて多様な文化活動をみることができる。
レストラン「まつだい食堂」では、「農の御膳」など、地元の食材を活かした料理を味わうことができる。その料理は評判を呼び、週3回、はとバスのツアーが組まれ、首都圏の大使館等へのケータリング・サービスも行っている。アーティストと地元の業者が共同開発したアーティストグッズを取り扱うショップも重要な収入源となっている。
さまざまな農業プログラム、農村観光の取り組みも行われている。
「まつだい代官山クロスカントリー」は、良質な都市文化の機能を持ち合わせ、若者を中心としたライフスタイルの決定要因となる情報を常に発信し続けている代官山と松代を、魅力ある地域物産を媒介につなぎ、「食」と「農」を通じて、将来的には妻有全域と首都圏の人の交流に繋がることを目的としている。また、担い手のいなくなった棚田のオーナー制度もスタートしている。
学習教育プログラムとしては、こへび隊と住民が共同でつくりあげる雪と農業の松代町を知る事ができる松代デジタルアーカイブスがある。外部の専門家の視点・知恵を借りて農村の未来を考えるセミナーシリーズ「農楽塾」や、妻有の師父たちに体験を通して学べるゼミナール「野の師父」も定期的に開催されている。
町民全員が科学者―森の学校キョロロの挑戦
松之山では、ステージとして、そこに残されたありのままの里山の自然に着目し、越後松之山「森の学校」キョロロが建設された。建築はコンペで選ばれた手塚貴晴+由比の設計で、宇宙線や水、音などの自然を感覚で体験することをテーマとした5つの作品とコラボレーションしている。「キョロロ」は、町の鳥アカショウビンの鳴き声で、公募により選ばれた名称である。宇宙物理学者の池内了氏を顧問に迎え、住民全員が科学者であるというコンセプトのもとに、10年をかけて「全松之山誌」を完成させることをめざし、住民が中心となって松之山の自然と人の暮らしに関わる旬の情報を収集し、データーベースに蓄積、それは日々更新され、「情報コーナー」として来館者に公開されている。
また、地元の小学生を中心としたジュニアインストラクターも養成されており、子どもたちが自らの五感を使って自然の中で遊び、学ぶためのさまざまな体験学習プログラムも提供している。里山に直に入り込んで遊び、学びながら、地域の自然を守ることからさらには最先端の自然科学の成果やグローバルな環境問題にまで視野が広がっていくようなプログラムづくりを目標としており、開館前の2002年には里山学会が設立された。特に、里山の生きた教科書をベースとした自然探検プログラムは人気が高く、都会からのリピーターも多い。キョロロは、地域と都市住民の協働による森づくりの中心的な役割を果たすべく、都市と里山の新しい関係づくりを目指している。
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