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豊後高田「昭和の町」物語
豊後高田市観光まちづくり株式会社
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平成13年9月、“昭和の町”づくりがスタート。
  “昭和の店”わずか9軒からのスタートです。
  看板や建具を改修し、手回しの肉きり機や行商リヤ・カーなど商いのお道具を一店一宝として展示。手づくりのコロッケやアイス・キャンデーなど自慢の売り物を一店一品と名づけての開業です。
  しかし、このままでは観光のお客様は呼べません。
  先に述べた拠点施設づくりが急がれます。
  昭和10年前後に建てられた旧高田農業倉庫を活かして、“昭和ロマン蔵”を立ちあげることです。古い農業倉庫を市が約6500万円かけて改修。ここに昭和を感じさせるグリコのおまけや鉄腕アトムのおもちゃ、平凡パンチに明星などの雑誌類・・・を展示したい。そこで白羽の矢を立てたのが、全国リサーチ300件の中で巡りあった小宮裕宣さんでした。福岡市で駄菓子屋を営みながら、25年間かけて20万点に及ぶ昭和グッズを集めてきた小宮さん。当時、豊後高田市で福岡詣で・小宮詣でという言葉が交わされていましたが、私たちは何回も何回も訪問して口説き落とし、小宮さんを館長に迎えることになりました。こうして“昭和ロマン蔵”の中に“駄菓子屋の夢博物館”ができることになるのです。


観光バスが、報道陣が、視察団がやってきた!
  観光のお客様にきてもらうためには、旅行会社対策も必要となります。
  旅行会社を動かせば団体のお客様が、団体のお客様が動けば報道陣が、報道陣が動けば視察団と個人客が動くという戦略で、まずは旅行会社対策です。
  ちょうどそのとき、九州運輸局から町づくりのための調査支援事業をいただいて、福岡市にある旅行会社の商品造成担当者によるモニター事業をおこないました。旅行の専門家に“昭和の町”を実際に歩いてもらうとともに、“昭和ロマン蔵”とその中の中核施設“駄菓子屋の夢博物館”の説明を聞いてもらい、意見を伺うというものです。その中で数社から、“昭和ロマン蔵―駄菓子屋の夢博物館”が開館したら、バス・ツアー商品をつくってみよう、というありがたい言葉をいただきました。
  そして、平成14年10月、“昭和ロマン蔵―駄菓子屋の夢博物館”の開館です。
  バスがやってきました。観光バスがやってきたのです。
  モニターでお世話になった旅行会社はもちろん、バス会社などにも市役所と商工会議所と商人がタッグを組んで、幾度も訪問活動をしてきた成果です。
  お客様も喜んでくださっているようです。笑顔を見たらわかります。
  コロッケを食べながら、商店街巡りをしているお客様がいるかと思えば、アイス・キャンデーには行列さえできています。
  そうすると、「犬や猫しか歩かない」といわれた商店街に観光バスがやってくるというわけで、新聞やテレビ、雑誌などに大きく取りあげられました。有料広告費に換算すると、数億円にも匹敵するでしょうか。それを見て、中心市街地の疲弊に悩む全国各地から次から次へと視察団もやってきました。
  小さな感動のうねりが大きな波となって、マーケットに創発を促していったのです。
  私たちにとっては、奇跡としかいい様がありません。「俺たちの商店街に観光バスや報道陣、そして視察団までやってくるとは・・・」


“昭和の乙女”とともに昭和の思い出さがし。
  ところで、昭和30年代という時代はどんな時代だったのでしょうか。
  昭和30年代後半から高度経済成長期を迎え、より豊かに、より便利に、より合理的にと、日本人は頑張ってきました。そして、富を手に入れたのです。だが、本当に幸せになったのか。バブル期が終わり、失われた10年とかいわれていました。しかし、本当に失ったものとはなんだったのか。お金で測る幸せの中には、答えを見いだすことはできません。豊かで便利で合理的な暮らしの裏側に、失ったものの大きさを、今ようやく気づき始めています。

 おかずをつくったら近所におすそ分け、隣り近所で助けたり助けられたり、といった昭和30年代の日本人がまだ持ちあわせていた人間関係や価値観。ある観光客のお客様が、“昭和ロマン蔵”の中にあるお茶の間の前でつぶやいていました。「昔、父さんと母さん、兄さんと姉さんと幼い頃の自分、毎朝、毎夕、ちゃぶ台を囲んで、みんなで食事をしていたな。それなのに、今は食事の時間もバラバラ、家族なのに一人一人が鍵のかかる部屋に住んでいて・・・。今夜は帰ったら、家族みんなで食事をしよう」と。
  そんな昭和30年代の人間関係や価値観をお客様にお伝えするのが、“昭和の乙女”。
  “昭和の乙女”とは、地元の主婦による案内人、ガイドさんのことです。日頃から商店街に馴れ親しんでいる生活者の視点で、“昭和の町”の案内役を買ってでてくれています。“昭和の店”の建物や一店一宝、一店一品の由来はもちろん、商人の一人一人を紹介しながら、わずか500mの通りを1時間かけて案内してくれます。
  知識切り売り型、自己満足型ではない彼女たちの案内によって、“昭和の町”はお金と物がただ行き交うだけの商店街ではなくなりました。一宝や一品について商人とお客様との間で昭和の思い出さがしが始まり、笑顔と笑顔、心と心を交わしあう商店街に生まれ変わったのです。
  観光客のお客様が、“昭和の乙女”や“昭和の商人”との交流の中で、過ぎ去った昭和という時代をほのぼのと暖かく思い起こし、また人生の忘れ物を見つけることのできる町、それが“昭和の町”の最大の魅力ではないでしょうか。


新しい物語を紡ぎだしていくために。
  “昭和の町”には年間20数万人ものお客様が訪れるようになりました。
  しかし、課題はあります。その一つは、お客様の滞在時間が短いということ。1時間から1時間半の滞在で次の観光地の別府や湯布院へ向かわれるのです。
  もっと市内に滞在していただきたい。そのための方策はないのだろうか。
  実は、豊後高田市には“昭和の町”構想を生む前からもっと大きなビジョンがありました。
  それは、豊後高田市の山・里・町を結ぶ“くにさき千年ロマン”タイム・トラベル・ビジョンです。
  ほぼ円形の国東半島には、内心部分に山の空間、それを取り巻く外心部分に里の空間があり、山や里への入り口として、東に杵築の町、西に豊後高田の町という二つの町の空間があります。そして、この空間軸に時間軸を重ねると、山には六郷満山の寺々で名高い“古代の霊山”、里には荘園村落の景観を留める“中世の村”、杵築の町には城下町の町並みを残す“近世の町”、豊後高田の町には商店街の町並みを残す“昭和の町”が重なります。つまり、山と里と二つの町という空間に古代・中世・近世・昭和という時間を重ねて、その“くにさき千年ロマン”を“昭和の町”発のタイム・トラベルで結ぼう。さらに、“昭和の町”発の交通手段としては、昭和30年代のあのなつかしくいとおしいボンネット・バスが最もふさわしいのではないか。これが、私たちにとって究極の町づくりのテーマ、“くにさき千年ロマン”タイム・トラベル・ビジョンなのです。
  そんな大きな夢を描きつつ、“昭和の町”が一足先にブレークしましたが、豊後高田市の町づくりのゆく手は、山・里・町を結ぶ、この“くにさき千年ロマン”タイム・トラベル・ビジョンの実現にかかっていると思います。(去年3月に市町合併がおこなわれ、海の魅力も新たに加わりました)
  点である地域資源を線で結び、面に広げていく。こうした展開こそが、持続可能な観光交流活性化をなしていくのではないでしょうか。
  当初、9軒でスタートした“昭和の店”は、今30数店に増えました。“昭和ロマン蔵”には、見る施設として“駄菓子屋の夢博物館”とあわせて“昭和の絵本美術館”が、食べる施設として「旬彩 南蔵」ができ、来年には「昭和の遊び体験館(仮称)」もできる予定で、見る・食べる・遊ぶの三拍子が揃います。
  また、市役所と商工会議所と民間が出資して、去年11月に“豊後高田市観光まちづくり株式会社”も発足し、“昭和の町”を一つの経営体としてとらえつつ、それを“くにさき千年ロマン”タイム・トラベル・ビジョンの実現に結びつける永続的なマネジメント・システムの準備がいよいよ整いました。
  豊後高田市の町づくりは、宗教文化の“古代の霊山”、農業文化の“中世の村”、商業文化の“近世の町”と“昭和の町”、そして日本の夕陽百選にも選ばれた“太古の海”という豊かな自然と歴史、そしてそこで暮らす人たちの心がそれぞれ触発しあって、融合し、さらに新たな魅力を創りあげようとしています。
  これが、小さな商店街の熱い思いが訪れる人たちとの大きな共鳴を生み、観光交流活性化のマーケットを創発していった“昭和の町”の物語です。もちろん、これで終わりではありません。“くにさき千年ロマン”の新しい物語を紡ぎだしていくために、私たちの悪戦苦闘はきっと永遠に続いていくことでしょう。



評価のポイント
 地域に根付いた文化と観光客との交流は、観光による街づくりの代表例。綿密なリサーチに基づく計画性、町作りに向けた努力と組織力、豊後高田の独自の魅力を開発した独創性が過疎に悩む同市の活性化に繋がったことを評価した。

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※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。