ほんの5年前まで、人口1万8千人(当時/現在は市町合併で25,663人)の豊後高田市の小さな商店街は「人よりも犬や猫を見かける方が多い」といわれるほど、さびれきった町でした。それが今、観光バスや視察団や報道陣が毎日訪れる活気ある商店街に生まれ変わりました。なんと年間20数万人のお客様が訪れる町になったのです。
一体、この町になにが起こったというのでしょう。
豊後高田市の中心市街地を舞台にした観光交流活性化の物語に、少しだけおつきあいくだされば幸いです。
過疎の町で起こった奇跡の物語。
大分県の北部、国東半島の西側に位置する豊後高田市は、市内に瀬戸内海国立公園や国東半島県立自然公園を擁し、山・里・海の自然資源と古代の仏教文化遺跡や中世の荘園村落遺跡といった歴史資源など、豊かな自然と歴史に育まれた地域資源に恵まれています。
奈良時代から宇佐八幡宮の影響を強く受け、平安時代にはその荘園となって、山の空間に六郷満山と呼ばれる神仏習合の独特な仏教文化を開花させていました。
鎌倉時代から戦国時代までは宇佐八幡宮の荘園が里の空間で大いに栄えるとともに、江戸時代には徳川家康の曾孫が中心部に城下町を築き、明治時代以降はその骨格の上に商店街が立地して、常に国東半島の中核都市として繁栄を謳歌していたのです。
しかし、国鉄(現JR)の日豊線からはずれていたこともあり、昭和29年には30,588人いた人口が、その後一貫して減少し、5年前は全国でお尻から数えて9番目に人口が少ない市となっていました。
高齢化率についても、昭和55年には17.7%であった高齢化率が年々上昇し、平成12年には30.5%となっていました。平成12年の大分県平均は21.8%であり、大分県の高齢化率が昭和55年から10.1ポイント上昇しているのに対して、当市では12.8ポイントの増加となっており、高齢化の進行が著しい状況が続いています。
過疎化や高齢化が深刻な典型的な地方都市として、当然のこと、中心市街地はご多分にもれず疲弊していたのです。
こうした中、町の顔である中心市街地をなんとか再生させようと、主役の商人、コーディネート役の商工会議所、バック・アップ役の市役所からなる有志のグループが立ちあがりました。
奇跡は突然起こったのではありません。
話は10数年前の平成4年にさかのぼります。大手広告代理店に依頼して、中心市街地の未来構想を作成しました。内容は立派なものでしたが、商人や市民はだれも振り向いてくれませんでした。なぜか?そこには町の個性が反映されていなかったからです。それに気づいた私たちは、中心市街地や既存商店街の歴史を徹底的に調査・研究し、町の個性を発掘しようと思い立ちました。
最初におこなったのが、豊後高田市街地ストリート・ストーリーの作成です。
平成5年から平成9年にかけての5年間、町の歴史に埋もれ忘れ去られた町の個性をあぶりだし、浮かびあがらせていきました。
その過程で、商店街の町並みでなにか観光化ができないかと、話が持ちあがりました。例えば江戸時代の城下町の面影でどうか、あるいは古い明治・大正の建物がいくつかあるが、これを使えないかと、いろいろ検討されましたが、結局観光的には近世城下町の町並みをやれば、萩・津和野・金沢にはかなわない。近代化遺産の町並みをやれば、長崎・神戸・横浜にはかなわない。そうなったとき、なにが目に入ったかというと、今まさに目の前にある商店街そのもの、あえて言葉でいえば商店街が元気だった最後の時代、高度経済成長期以前の昭和30年代の商店街の町並みがまだ残っている。これがもしかしたら活かせるのではないか。というより、これが唯一のさびれきったからこそ残った伝統的な商店街の遺産なのではないかという結論に至ったのです。
外に目を向けてみると、首都圏で新横浜ラーメン博物館のようにビルの中に昭和30年代の町並みをつくって、1日4,000人ものお客様を呼びこんでいるところが結構たくさんある。もしかしたら犬と猫しか歩かなかった豊後高田市の商店街がブームを起こすことだってあるかもしれない!と。
その確信を得るために平成10・11年の2年間かけておこなったのが、日本全国の昭和30年代再生事例のリサーチです。
ありとあらゆる再生事例収集300件とまねもの選別200件。その中の、新横浜ラーメン博物館をはじめ、北は山形県から南は長崎県までのほんもの視察100件で、間もなく昭和30年代ブームが日本中を覆いつくすであろうと容易に想像できました。ここでようやく“昭和の町”こそ、この町にしかない町づくりの旗印、と自信を持ったのです。
“昭和の店”と“昭和ロマン蔵”で“昭和の町”づくりを。
具体的には、拠点商店である“昭和の店”を再生するために、次の4つのキー・ワードを掲げました。
1.“昭和の建築”再生
建築再生といっても、お金をふんだんに使って、昭和30年代の建築を再現しようというものではありません。もともと古い建物で商いを続けてきた店のパラペット(外壁リフォーム)さえ外したら、簡単に昭和のたたずまいがよみがえる。ないものを求めず、あるものを活かしていくという精神での建築再生です。
2.“昭和の歴史”再生(一店一宝運動)
博物館には飾ってもらえないだろうけれど、その店の歴史を物語る昭和のお宝をお客様にご覧いただこう。爺ちゃんや婆ちゃん、父ちゃんや母ちゃんが使っていた商いのお道具、一店一宝を店頭に展示する運動です。
3.“昭和の商品”再生(一店一品運動)
郊外の大型店の売り場にはない、その店ならではの昭和の逸品をお客様にお薦めしよう。これも、爺ちゃんや婆ちゃん、父ちゃんや母ちゃんから受け継いだ自慢の売り物、一店一品を店頭で販売する運動です。
4.“昭和の商人”再生
さびれきった商店街だからこそ、お客様と目と目を交わし、心と心を交わして商いに勤しむ“昭和の商人”が、今もこの町には生き残っている。物より人を守り伝えていくという精神での商人再生です。
この4つのキー・ワードをもとに、総延長500m、全店舗100軒の商店街を“昭和の町”として “昭和の店”を1年数軒ずつ段階的に再生していこうというわけです。
また、観光のお客様をお迎えするということであれば、拠点施設も必要になってきます。そこで目をつけたのが、商店街に隣接して残っていた旧高田農業倉庫です。「この農業倉庫をなんとか“昭和の町”のシンボル、“昭和ロマン蔵”として活かしたい」と考えたのです。
こうした思いつきはすばらしい。でも、商店街の現状をみると、果たして観光のお客様がやってくるような町になるのか、なれるのか。ということが、私たちの頭をよぎりました。
「絵に描いた餅」の構想やビジョンならば、どこの町にもある。しかし、私たちには後がありません。夢の実現を誰よりも信じ、いかなる悪戦苦闘をも厭わず、やり遂げる覚悟、信念を持つことを皆で誓いました。
「国東半島の中核都市として繁栄を謳歌した昭和30年代の商店街。数多く残る当時の建物や一宝や一品、そして商人を活かし、観光のお客様を呼びこもう。なつかしくいとおしい時代の暮らしそのものを売りとする新しい形の観光だ」
実現に向けた実践の始まりです。
「未来を予測するな。未来を創造せよ」 (アラン・ケイ)という言葉があります。
未来とは受動的に予測するのではなく、能動的に主体的に創造していくものなのだと。
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