平井理央のスポーツ大陸探検記

Vol.14

2020.3.19

栗原恵さんインタビュー

来る4月15日には、ついに開催100日前を迎える東京2020オリンピック。数あるオリンピック競技のなかでも、国民的人気を誇るのがバレーボールです。「プリンセス・メグ」の愛称で親しまれ、長年日本の女子バレーボールを牽引してきた栗原恵さん。2019年に17年間にも渡るプロバレーボール選手生活にピリオドを打った栗原さんに、引退後の心境や日本のエースとして活躍した現役時代のこと、オリンピックに出場して感じたことなどをうかがいました。


撮影:竹見脩吾


平井理央さん(以下、平井):改めまして、長い現役生活、本当にお疲れさまでした。昨年現役を引退されましたが、今はどんな心境で毎日を過ごされていますか。

栗原恵さん(以下、栗原):ありがとうございます。選手時代はすごくプレッシャーがありましたが、今はとてもリラックスしています。

平井:バレーボールの情報をチェックしたり、試合をご覧になったりしますか。

栗原:ナショナルチームの情報はチェックしますし、Vリーグ女子決勝戦へ最後にお世話になったJTマーヴェラスが進出したので、会場へも見に行かせていただきました。

平井:現役を退いてからは、どんな目線でバレーボールの試合を見ていますか。

栗原:辞める前は、「自分がプレーしていたらこうしたかな」等と思うのかなと想像していましたが、それが驚くくらい全くなくて(笑)。JTが優勝した試合を見ても、自分も現役を続けていればとは考えず、選手全員で結果が出せて良かったと思いました。

平井:もうファン目線で見ているのですね。

栗原:そうなんです。自分でも意外でした。

平井:それだけ全てやり切ったということでしょうか。

栗原:自分では気づいていませんでしたが、やり切っていたんだということを離れてから感じました。

平井:でも、引退する直前にもやり切ったという気持ちがあったからこそ、引退を決意したというところもあったのではないですか。

栗原:やり切ったというよりも、次の人生をやっと楽しみに思えるようになって引退を決めました。ナショナルチームを外れてから、自分の価値が無くなるとか、バレーボールを辞めたら自分に何が残るのだろうかというマイナスなことばかりを考えて悩んでいたのですが、ある時から引退後は何をしようか等、考えが楽しみな方に自然に変わってきたので、もう満足したと感じて引退しました。

平井:そう思うようになるきっかけはありましたか。それとも徐々にそう思うようになったのですか。

栗原:気づいたらそう思えるようになっていました。よくきっかけについて聞かれますが実際に「これ」というのがなくて、いつの間にかそう思うようになっていたので、本当に自然にだと思います。


撮影:竹見脩吾


素の自分を出すのが怖かった現役時代前半

平井:先ほどナショナルチームから外れてというお話がありましたが、ちょうど私がバレーボールの取材を始めたのが2006年で、その当時、栗原さんはナショナルチームのエースとしてバリバリ活躍していました。それからケガに苦しんだ時期があり、海外のチームへ移籍し、そしてまた日本に拠点を移してプレーをして、2012年ロンドンオリンピックの直前までナショナルチームでプレーされていました。良い時と大変な時を間近で見ていましたが、取材する側としては、すごく声をかけづらかったです(笑)。

栗原:よく言われます(笑)。

平井:孤高のエースというイメージで、少し会話をする分には人当たりが柔らかいのですが、もう一歩踏み込めないというか、壁があるという印象を持っていました。実際はどのような気持ちでしたか。

栗原:今でもですが、バレーボールの話になると普通の話をする時よりも表情や声のトーンが変わってしまう部分があります。試合後のインタビューでも、バレーボールに対してはシビアに振り返ってしまうので、選手時代はそれが色濃く出ていたのだと思います。言葉も非常に選びましたし、自分の思っていることを伝えて、それでいいのかという不安もありました。世間が自分をどのように見ているのかを常に考えて、そこに寄せていた部分はあります。そのほうが気持ちが楽でしたし、素の自分を出す方が怖かったことを覚えています。


撮影:竹見脩吾


平井:「怖い」とはどのような部分ですか。

栗原:ナショナルチームのエースと言ってはいただいていましたが、実際にそれに相応しい活躍ができていたかというと、自分自身では疑問に思うところがあります。自分のせいで負けたとか、自分がもっと得点を取っていれば勝てたと思うことがたくさんありました。自分の中で虚勢を張っていないと自分を守れないという意識があり、メディアの方に踏み込んできて欲しくないと思いながらインタビューを受けていました。踏み込めないとおっしゃいましたが、それがそのまま伝わっていたのだと、今、感じました。

平井:コメントでも、例えばチームで最多得点をあげて試合に勝った時でも全然ダメでしたとおっしゃっていて、とても謙虚で自分のプレーに対して貪欲な選手という印象がありました。それも自分を守るためだったのでしょうか。

栗原:選手時代は得点しても良い部分が頭に残っていませんでした。ブロックされたことや、決まると思ったコースに打ったけれど拾われたとか、そのような部分ばかり頭に残るタイプでしたので、試合を振り返るコメントでは素直な気持ちを話していました。ただ、自分がちょっと発言したことがとても大きく報道されたり、自分の意図と違って伝わってしまった経験があったので口数を少なくして、それこそ踏み込まれたくないというバリアを張って守っていたところはあります。自分の伝える力に自信がなかったことと、バレーボール選手なのだからバレーに集中しているべきだ、と自分に言い聞かせていたところがありました。


撮影:竹見脩吾


転機となったロシアプレミアリーグへの移籍

平井:栗原さんは現役時代、国内だけでなく、ロシアのプレミアリーグでプレーした経験もありますが、いろいろなチームに所属したことで得たものはありますか。

栗原:先ほどの、踏み込めないというところがあった時代は、後輩も私に声をかけづらかったと思います。実際にあまり若い選手から話しかけられることもなかったですし、そのイメージで通っていました。その後、転機になったのは、ロシアのディナモ・カザンへの移籍です。言葉が通じない分、表情やしぐさが大事だとロシアに行ってからとても反省しました。その後、帰国して岡山シーガルズに入団して、そこでは等身大の自分でいること、常に笑顔でいることを心がけました。すると、周りがそれまでと全然違う感じで接してくれるようになりました。年齢も上がっているので話しかけづらい存在になっているはずなのに、それまでより若い選手が話しかけてきてくれたり、仲良くなったりすることが増えました。それは一つのチームに在籍し続けていたら最後まで学べなかったことです。

平井:岡山シーガルズでは多くの若い選手が慕っているという話をよく聞きました。

栗原:作らず、飾らず、素の言葉と表情で普通に接したら、周りの反応がとても良かったです。自分自身も楽しめましたし、とてもありがたかったです。そこで初めて、素の自分でいていいのだと感じました。その頃、2012年ロンドンオリンピックの選考に落ちたこともあって、それまでは日本のエースという役割を背負わないといけないと自分で勝手に思っていたのですが、その気持ちもとれて、とてもショックだった一方で、気持ちが楽になったところもありました。選考から落ちたことは本当に悲しい経験ですが、そこで純粋に一人の栗原恵として生きていこうと思えました。

平井:無理のない自分ということですよね。途中で素の自分を出せたからこそ、長く現役生活を続けられたというところもあるかもしれませんね。

栗原:多分、素の自分を出せていなかったら、もたなかったです。


撮影:竹見脩吾


オリンピックはもがき苦しんだ大会

平井:オリンピックは2004年アテネオリンピック、2008年北京オリンピックの2大会連続で出場されていますが、栗原さんにとってオリンピックはどんな舞台でしたか。

栗原:オリンピックは正直、苦い経験ばかりが残っています。振り返っても良い思い出がなく、どちらももがき苦しんだ大会でした。

平井:それは思うようなプレーができなかったということですか。それとも世界が強かったということですか。

栗原:世界はもちろん強いですが、自分たちのベストの状態をオリンピックにもっていけたかというとそうではなかったですし、いくら世界大会で良い成績を積み上げたとしても、結局オリンピックを目標にやってきているので、そこで結果を出せないという部分で後味が悪かったですね。もっと何かできたのではないかとずっと思っていました。

平井:オリンピックのコートにはいつもと違う緊張感はありましたか。

栗原:緊張感はありますね。緊張感を自分で大きくしてしまっている部分もたくさんあると思いますが。次のオリンピックに自分が出場できる保証は何もありませんから、毎回、今回が最後かもしれないと思って臨むので、大会の意味としてはとても大きいです。

平井:今、現役を引退されてから振り返っても、やはりオリンピックは大きかったという感覚ですか。

栗原:現役を引退して感じるのは、今回のインタビューのようにオリンピックに出場した時の経験をよく聞かれるので、それだけオリンピックという大会を経験することに大きな意味があるのだなと感じています。私は、正直言葉は悪いですけど、「行っただけ」と思っているので、オリンピックをもっと自分の誇れる大会として残せていたら幸せでしたね。

平井:バレーボールは自国開催でなければ、オリンピック出場にはワールドカップか、OQT(バレーボール世界最終予選)で出場権を獲得しなければならないので、出場することにも大きな意味がありますし、出場のチケットを手にするのは当然ですが簡単ではないですよね。

栗原:アテネの時は前回の2000年シドニーオリンピックに出場できなかったので、出場できたことでみんなが喜んでくれて嬉しかったです。吉原(知子)さんや出場した経験がある方からお話を聞いていましたけど、やはり行かないとわからないものでした。全然足が動かないんだよとか、海外の選手の目の色が違うんだよ等という話は聞いていましたが、想像したものと実際に体感して自分の中に落とし込むのとは絶対に違うので、そういう意味でも「経験が大きい」と言われる意味を強く感じました。


撮影:竹見脩吾


自分の弱さを出して、コミュニケーションを広げる

平井:お話を聞いていて、現役選手の相談役として、例えばナショナルチームにメンタルトレーナーのような存在として帯同されるというビジョンを想像してしまいました。プレッシャーもそうですし、ナショナルチームに選ばれた人でないとわからないものはたくさんあると思いますから。

栗原:私自身はメンタルトレーナーをつけたことがないんです。

平井:それは驚きです。では自分でどのように乗り越えているのですか。

栗原:乗り越えているのかな(笑)。精神的に落ちるところまで落ちるのですが、最後は上がるしかないかなと思っています。

平井:とことん悩んで自然に上がるのですか。

栗原:試合でも自分の中で消化しきれずに、「今日の試合はこうだった、得点できなかった、あぁー」となりますが、明日もあるし頑張ろうと思考の最後がポジティブな言葉で終わる傾向があるようです。過程ではすごく悩みますが、決断したら早いのは自分の長所でもあります。最後は自分がやるしかないので自分がどうしたいか。逃げようと思えば逃げられます。現役時代も日々のトレーニングや練習が本当にきつ過ぎて辞めたいと思ったことはたくさんありますが、常に思っていたのは「辞めるのは一瞬」ということです。「辞めます」と言って、そこからいなくなればいいわけですから、本当に簡単です。続けることの難しさを知っているからこそ、「じゃぁ、行けるところまで行ってみよう」と思うことが続いて、昨年まで現役ができていた感じです。

平井:そういう乗り越え方を聞くと、ご自身でそこまでジャッジできるのですから、やはりメンタルが強いですね。

栗原:話をするとメンタルが強いと勘違いされますが、自分では弱いと思っています。

平井:本当に強い人は弱さを認めることができるのではないですか。

栗原:弱さを認めるではないですが、海外に移籍してからは、周囲に自分の一番弱い部分をまず言うようになりました。先に欠点を敢えて自分から言うと、相手も打ち解けやすいと感じてから、そうしています。例えばプレーで「右側のボールを拾うのは苦手」等と言うと、そのバックに入る選手から「右はカバーするので左はとってください」とフォーメーションの話にもなり、コミュニケーションもとれます。もちろん、その会話は苦手な部分は練習してできるように頑張るからという前提から始めています。

平井:選手同士は弱いところを見せ合わないイメージがありましたが、そうではないのですね。

栗原:若い時はまさにそうで、弱いところを隠そうとしていました。でも、ロシアから戻ってからは全く逆です。プライベートでも失敗したことを話すと、そこから会話が広がっていくことを学びましたし、自分もその方が相手と打ち解けやすいです。完璧を演じたくないですし、ダメなところは周りに補ってもらえばいいと思うと気持ちが軽くなります。

平井:バレーボールを通していろんな経験をされて、どんどん変わっていっていますね。

栗原:経験したくなかったこともたくさんありましたが、今は全部経験して良かったと感じています。

平井:それはどういうことですか。

栗原:高校を卒業してすぐにナショナルチームに召集されてVリーグの凄さも知らないうちに世界と戦わなければならなかったこと、まだまだ育てて欲しい気持ちがあるのに「ここ(ナショナルチーム)は育てる場所じゃない」と言われてもがいていた時期、そこまで背負わなくていいのに自分で勝手に日本のエースの責任を背負っていたこと、ケガをしてコートに出られなかった時期、ベテランになってアップゾーンにいる時間が長くなり途中出場が増えて、それでもチームにいるだけで意味があると言われてその意味を考えながら現役を続けていた時期。これらはポイントポイントではとても辛かったですが、経験していないとわからなかったことなので全部を経験できて、今はトータルで良かったと思えます。


撮影:竹見脩吾


選手時代に自分が報われると思っていたことを選手に反映させたい

平井:2019年のワールドカップバレーではレポーターとしても活躍をされていましたが、今後、どのようにバレーボールと関わっていきたいですか。

栗原:私が選手時代に感じていた思いを、今同じように背負っている選手がいます。例えばインタビューでも「自分があの時、こういうプレーをしていたら勝てたと思います」と答えているのを聞くと、現役を離れた今の私は、そこに至るまでの経緯が、経験者、かつ第三者としてよく見えるからこそ「あなたのせいじゃないよ」と言ってあげられます。選手の気持ちは当時の自分を見ているようでとても理解できますし、そのような経験は誰もがしているわけではないので、選手の気持ちを汲んで言葉にしたいと思っています。TVを見ている方にその試合に至るまでの道のり、例えば長い合宿のことやケガで試合に出られない時期がありながらやっと代表に復帰できた等、選手のバックグラウンドも一緒に伝えられる様に心がけています。自分が選手だった時に「ここを見てもらいたい」と思っていたことを今の選手たちについて語る際になるべく反映したいので、もっと深みのある言葉で、プレーだけでなく選手たちを別の角度から見る面白さを伝えていきたいです。

平井:見ている人も選手についての情報があればあるほど、より一層応援したくなりますね。本当にさまざまな経験を重ねてどんどん成長していって、今の栗原さんがいらっしゃるのですね。これからもたくさんの経験を重ねてますます素敵に進化していく栗原さんの今後の活躍にも注目したいです。


撮影:竹見脩吾


Profile

栗原恵(くりはらめぐみ)

元バレーボール選手。スポーツキャスター、バレーボール解説者。1984年7月31日、広島県生まれ。小学4年生の時にコーチをしていた父の影響でバレーボールを始める。高校は名門・三田尻女子高校(現・誠英高校)に進学し、1年時のインターハイ・国体・春高バレー、2年時のインターハイ優勝の高校4冠のメンバーとして活躍。 2001年に全日本女子に初選出され、翌2002年、日米対抗で代表デビュー。2004年アテネオリンピック、2008年北京オリンピックに出場。2010年に開催されたFIVB2010女子バレーボール世界選手権では32年ぶりに銅メダルを獲得。2019年6月に17年間のプロバレーボール選手生活にピリオドを打つ。



栗原恵さんの「Bridging the New ~ つながれば、はじまる。~」
栗原さんの「Bridging the New ~ つながれば、はじまる。~」は再び「つながりたい」場所について。それは遠征や合宿で訪れたことがあるヨーロッパ。「イタリアやスイスは景色がとてもきれいで、おじいちゃんとおばあちゃんが手をつないで普通に歩いていました。とても素敵だったので、いつかバレーシューズを持たないで行きたいとずっと思っています」。

※「Bridging the New ~つながれば、はじまる。~」
2020年、まもなく訪れる世界最大のスポーツの祭典に、
JTBは、「Bridging the New~つながれば、はじまる。~」をテーマとして様々な取組みを行っています。
世界中の方々の「感動」や「歓び」の架け橋となり、
これからも多くのみなさまとその先の素晴らしい未来をご一緒に築けるよう、
JTBは、旅を通じて想像を超える感動をお届けしてまいります。



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月曜日~金曜日 17:00-17:10(「ACTION」内)
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平井理央

Profile

平井理央

1982年11月15日、東京生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、2005年フジテレビ入社。「すぽると!」のキャスターを務め、北京、バンクーバー、ロンドン五輪などの国際大会の現地中継等、スポーツ報道に携わる。2013年より、フリーで活動中。趣味はカメラとランニング。著書に「楽しく、走る。」(新潮社)がある。



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