平井理央のスポーツ大陸探検記

Vol.13

2020.2.12

本田武史さんインタビュー

今ではフィギュアスケートは4回転が主流になってきていますが、すでに2003年の四大陸選手権で2種類3度の4回転ジャンプを成功させていた本田武史さん。14歳で全日本選手権史上最年少で優勝を果たして以来、長く日本フィギュアを牽引してきた本田さんに、若手の活躍が著しい現在のフィギュアスケート界や現役時代のこと、そして2年後に迫った2022年北京オリンピックについてお話をうかがいました。


撮影:竹見脩吾


平井理央さん(以下、平井):若手の活躍が著しく、日本でもトップクラスの人気スポーツと言われるフィギュアスケートですが、本田さんはどうご覧になっていますか。

本田武史さん(以下、本田):スケート人口が増えたのが一番大きいと思っています。僕が現役の頃は、男子は全日本選手権に必ず出場できましたが、今は予選落ちする選手がいるほど選手数が増えています。

平井:昨年12月に開かれたISUグランプリファイナルで表彰台を独占したロシアのアリョーナ・コストルナヤ、アンナ・シェルバコワ、アレクサンドラ・トルソワの3選手!妖精のような3人が突然、一気に現れて世界に衝撃を与えたと思うのですが、あれだけ若い選手が活躍するようになったのはどういう流れなのでしょうか。

本田:彼女たちはジュニアで活躍していましたが、シニアに上がって間もないなかここまで結果を出すとは思っていなかったので正直、驚きではあります。ジャンプを跳ぶのに体型的に有利な部分はありますが、体型だけでジャンプが跳べるかというとそうではありません。彼女たちは本番に出せる能力が高い。普段から本番で100%の力が出せるように、120%の練習をしているのでしょう。3人ともエテリ・トゥトベリーゼコーチの門下生なのですが、厳しいオーディションを受けて門下生になり、毎日上手な選手ばかりが競い合って練習しています。練習についていけないとチームから出なければならないという厳しい環境で戦っているので、そこは強さの一つです。また、日本は昼間学校に行って朝晩に練習をしますが、ロシア勢は練習がメインでその間に学校に行くというスタンスなので、そこは大きな差がありますね。

平井:学生でありつつアスリートというよりも、アスリートでありつつ学生をしているということですから、日本とは根本的に選手の育成方法が違うのですね。今後、日本でもそういう練習方法というか、環境を取り入れていく動きはあるのでしょうか。

本田:日本には義務教育があるので難しいところですが、よりよい練習環境を作っていかなければならないとは思っています。具体的には、まずはリンクの数を増やすことから。2006年トリノオリンピックで荒川静香さんが金メダルを取り、それをTVで見ていた子供たちが今、選手として活躍しています。さらに、これからの選手は羽生結弦選手や宇野昌磨選手を見ている世代です。せっかく興味を持っても、練習する環境がないと選手は育ちません。2人が抜けた時に、次のスターとなる決定的な選手が今はまだ出てきていないことも今後の課題です。


撮影:竹見脩吾


人より上に行くために挑んだ2種類の4回転

平井:昨年12月に行われた全日本選手権では、鍵山優真選手が高校1年生で表彰台に上がり、本田さん以来23年ぶりの快挙ということで話題になりました。高校1年生だった23年前に表彰台に立った時の気持ちは覚えていますか。

本田:実は僕はその前の年にも表彰台に上がっているんです。中学3年の時に全日本ジュニア選手権でチャンピオンになり、推薦枠で全日本選手権に出場したところ、シニアでも優勝してしまいました。

平井:推薦枠からの優勝ですか!それはすごいことですね。

本田:まさか優勝するとは思っていませんでした。それが今でも史上最年少記録です。高校1年生の時は、1998年長野オリンピック出場をかけての試合でした。

平井:すごい緊張感だったのではないですか。

本田:それが意外となかったです。ただ、全日本選手権の後に開かれる世界選手権で長野オリンピックの出場枠を取らないといけないというプレッシャーはありました。

平井:母国開催でも出場枠は保証されてなかったのですか。

本田:1枠はありますが、世界選手権で10位以内に入ると2枠に増えるのです。

平井:そうなると10位以内というのは是が非でもですよね。

本田:その気持ちは強かったです。1枠か2枠かで、自分が出られるかどうかも関わってきますから大きいです。

平井:表彰台に立った全日本選手権も、その後の世界選手権を見据えての演技だったのですか。

本田:どうでしょう、枠取りのことだけを考えていました。

平井:今、その当時のことを振り返ってみて、高校1年生でそこまで考えて滑っていた自分をどう感じられますか。

本田:やっぱり長野オリンピックはすごく重要なポイントでした。日本で開催されるオリンピックに出られる選手は本当にひと握りです。さらに男子フィギュアスケートでオリンピックに出場できる選手はほぼ0(ゼロ)に近かったので、それに出たいという気持ちが大きかったです。


撮影:竹見脩吾


平井:長野オリンピックでの自身の演技は覚えていらっしゃいますか。

本田:長野オリンピックの時は、正直一番苦しい時期でした。アメリカに拠点を移した直後で外国人の先生とのコミュニケーションが全くとれなかったこともあり、すごくホームシックでした。英語も話せないし、先生の母国語であるロシア語も喋れない。でもスケート用語はなんとなく分かるので、一緒に練習はしていました。長野オリンピックが終わった時にはオリンピックにも出られたし、アメリカに戻る気持ちもないからスケートはもういいかなと思いました。

平井:どれくらいの期間、そう思っていたのですか。

本田:2、3か月ですかね。その期間もすることがなくて、結局なぜかリンクに滑りに行っていました。当時東北高校(宮城県仙台市)のスポーツコースに通っていて、クラスメートもスポーツをしており登校しても半数は試合でいない。そんな状況が続き、学校での寂しさを晴らすようにリンクに行っていました。するとまた競技をしたいと思い始め、それなら日本から出ようと決めました。

平井:日本から出ようと決心した要因はなんでしたか。

本田:その当時は日本人スケーターが不利な判定を受けることが多かった点でしょうか。それならアメリカに行こうと。アメリカではジャッジの人に挨拶に行って顔を覚えてもらって、どんどん輪を広げていき、3~4年経った時にはどの試合に行っても、どのジャッジの人も知っているという状況にまで到達しました。

平井:現役の選手がそういうことをするとは意外ですね。

本田:日本人スケーターがまだ少なく、海外でも今ほど知られていなかった頃でしたから、当時はそうしていました。もちろん練習もしました。他の選手よりも上へ行くにはどうしたらいいかを考えて行きついたのが「4回転を2種類持たなくては」ということです。それで2種類を跳ぶようになり、最初の世界選手権の13位から10位、8位、5位と少しずつ成績が上がっていった頃に、2002年ソルトレークシティオリンピックがあり、出場しました。

平井:本田さんは男子フィギュアのレジェンドでありますが、下積みというのか、地道な努力があったのですね。

本田:大変でした。今の状況からは想像がつかないと思います。日本人スケーターに点数が出ないということは、今はないですから。

平井:それも本田さんが積み上げてきた努力の賜物ですね。

本田:僕の前、佐藤信夫先生もそうだったと聞いています。


撮影:竹見脩吾


平井:そうした努力の甲斐があって正当な評価をしてもらえるようになっていったのですね。それでは2010年バンクーバーオリンピックで髙橋大輔選手が銅メダルを獲得した時は嬉しかったのではないですか。

本田:感慨深かったですが、自分がメダルを取りたかったという気持ちもありました。ソルトレークシティオリンピックではショートプログラムが2位だったので、「これは行ける!」と思ったのですが、それが間違いでした。

平井:ショートプログラムとフリープログラムの切り替えは難しそうですよね。

本田:ショートが終わって2位になったら、その日の夜くらいから周りがざわつきだしました。もしかしたら日本フィギュアでは夢のまた夢と言われていたメダルが取れるかもしれないと。選手村の中もいつもと違う空気で、居ても立ってもいられなくなって走りに行ったほどです。ショートの時はメディアの数は10名ほどでしたが、翌日のフリーの練習では日本を含めてメディアの数が5倍くらいに増えて、ジャンプ等のタイミングが全てズレてしまいました。練習後、コーチには「これが注目されるということだから対応しなさい」と言われましたが、精神的にパンクしたような状態でした。


撮影:竹見脩吾


平井:フリーの時の心境は覚えていますか。

本田:すごくよく覚えています。ショートの時は滑走が優勝したヤグディン選手(ロシア)のすぐ後で、会場が揺れるくらいの拍手と歓声に包まれたのがすごく怖くて、逃げ出したいくらいでした。でも、自分の名前が呼ばれた瞬間、全ての音が消えたのですが、フリーの時は全ての音が入ってきました。集中しきれてなかったなとすごく思います。

平井:20歳という多感な年にショートで2位になり、プレッシャーを感じた本田さんだからこそ、今年の東京オリンピックで自国開催となる選手に伝えられることはありますか。冬季と夏季とでは違うところもあると思いますが。

本田:母国開催のオリンピックは一生に一回あるかないかで、ないことが多いですよね。それも今回は東京ですから、羨ましいです。現役を引退してから15年経ちますが、未だにあの五輪のリンクで滑りたいと思ったりしています。

平井:2020年東京オリンピックで注目している競技やアスリートはいらっしゃいますか。

本田:水泳の瀬戸大也選手に頑張って欲しいです。体操も好きなので注目しています。以前、白井健三選手の4回転ひねりはどうやって回っているのかを研究したことがあります。斜めの状態で4回転すると遠心力がかかるので軸をきちんと作っていないといけない。回転力はどうやってつけているのかを見ていたら、右手の使い方がフィギュアにも活かせそうでした。

平井:そういう目線で他の競技を見ているのも面白いですね。


撮影:竹見脩吾


観客が演技に入りやすいように音に合わせて言葉を発する

平井:本田さんは現在、指導者、解説者としてもご活躍ですが、解説する時に気をつけていること、心がけていることはありますか。

本田:例えばジャンプの回転不足やスピン、ステップのレベル判定についてはジャッジするスペシャリストではないので言ってはいけないと考えています。後で選手が解説を聞いた時に、ここがそうだったのかと参考になるようにちょっとしたポイントを言うこと、TVで見ている人たちがうるさいと思わないようにすることを心がけている点です。もう一つ、声のトーン。ジャンプがどんどん決まっていくに連れて、声のトーンもどんどん上げていっています。

平井:本田さんも選手と一緒に演技している感じですか。

本田:自分の感情が出てくるという感じです。

平井:解説で苦労されていることはありますか。

本田:プログラムの中で例えばステップの時に「ステップシークエンス」などと紹介するのですが、音の切れ目で言うと全てが切れてしまうので、音をきちんと聞いてその音に合わせて言うようにしています。

平井:確かに音の切れ目で言われると、「次はこちらです」みたいな感じで、すごく説明っぽい感じがしますね。そういうことも計算して解説しているのですね。

本田:はい。「次はこちらです」と順番でやっているような感じよりは、やり始めた流れで言ったほうが見ている人が演技に入りやすい気がしますから。

平井:それは本田さんご自身が自分の感性でしている解説法ですよね。

本田:そうですね。練習を見て、その人の曲もずっと聞いて、この音の時なら話せるな等を考えます。


撮影:竹見脩吾


北京オリンピック最大の注目は羽生結弦選手の夢の3連覇

平井:2022年北京オリンピックの開催が2022年2月4日ですから、あと約2年になりました。北京オリンピックを見据えて、今シーズンも含めて北京オリンピックまでの期間、こういうところに注目してフィギュアを見るとさらに楽しめるよというポイントを教えてください。

本田:羽生結弦選手が北京まで頑張るかどうかは注目ポイントです。今の状態でいれば北京でも頑張れると思うので、オリンピック3連覇という夢の実現の可能性ももちろんあります。日本男子が羽生結弦選手や宇野昌磨選手に続いて、鍵山優真選手や他の選手たちがどこまで上がってくるかも楽しみです。女子はやはりロシアが強いので、それにどう対応して、どういうジャンプやプログラムで勝負していくのかというのをやっていかないと難しいですね。

平井:今後のフィギュア界で期待している選手はどなたですか。

本田:鍵山優真選手がイチオシです。実は、ノーミスだったら表彰台もありえると昨年の全日本選手権の前から言っていたので、実際にそうなってびっくりしました。

平井:鍵山優真選手のスケートの良さはどんなところですか。

本田:足腰の強さ、それと膝の柔らかさ。滑っている時に体重をぐっと押さえて一本の滑りを伸ばすというのは膝の柔らかさが重要です。これは教えてできるものではなく、持って生まれた才能ですね。

平井:世界で戦っていくために、これから鍵山優真選手に求められるものはどういうことですか。

本田:表現力というのは人生経験から出てくるので、さまざまなことを経験し、学ぶことが必要です。浅田真央さんの時もそうですけど、現役時代にタチアナ・タラソワコーチがずっと「恋をしなさい」と言っていましたが、それはすごく大事。恋愛をして失恋をして悲しみを体感しなかったら、悲しみは出せないですから。

平井:フィギュアスケートは日進月歩というのか、どんどん進化していくので目が離せないですね。進化していく面白さがある一方で、それとは別にあの時代も良かったというノスタルジックな気持ちもあるので、長く見続けたくなる競技ですね。

本田:フィギュアはルールによって世界が変わります。例えばボーカル入りの曲がOKになってからスケート界が変わりました。ルール変更があるたびに、それによっていろんなスターが出てきます。北京が終わったらまたルール変更があって、その後にまたスターが出てくる。そういう流れがずっと続いていくのではないかと思います。

平井:新たなスターが日本から生まれるのを楽しみにしています。


撮影:竹見脩吾


Profile

本田武史(ほんだたけし)

プロフィギュアスケーター、解説者、指導者。1981年3月23日、福島県生まれ。スピードスケートを習っていた兄の影響で、7歳の時にショートトラックを始める。同じリンク内で誘いを受けて、フィギュアスケートに転向。史上最年少の14歳で全日本選手権初優勝を飾る。日本人として初めて競技会で4回転ジャンプを3回成功という偉業を成し遂げる。1998年長野オリンピックへも史上最年少の16歳で出場。2002年ソルトレークシティオリンピックで4位に入賞。世界選手権では2度の3位獲得。



本田武史さんの「Bridging the New ~ つながれば、はじまる。~」
ミッツ・マングローブさんとの食事会で初めて水泳の瀬戸大也さんにお会いしました。そこでつながって以来、より一層応援に力が入りますし、活躍が楽しみになりました。

※「Bridging the New ~つながれば、はじまる。~」
2020年、まもなく訪れる世界最大のスポーツの祭典に、
JTBは、「Bridging the New~つながれば、はじまる。~」をテーマとして様々な取組みを行っています。
世界中の方々の「感動」や「歓び」の架け橋となり、
これからも多くのみなさまとその先の素晴らしい未来をご一緒に築けるよう、
JTBは、旅を通じて想像を超える感動をお届けしてまいります。



【平井理央さんのラジオ番組が好評オンエア中!】
平井理央さんのスポーツトークをラジオでもお楽しみいただけます。
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平井理央

Profile

平井理央

1982年11月15日、東京生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、2005年フジテレビ入社。「すぽると!」のキャスターを務め、北京、バンクーバー、ロンドン五輪などの国際大会の現地中継等、スポーツ報道に携わる。2013年より、フリーで活動中。趣味はカメラとランニング。著書に「楽しく、走る。」(新潮社)がある。



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