平井理央のスポーツ大陸探検記

Vol.6

2019.05.24

伊藤華英さんインタビュー

2008年北京五輪、2012年ロンドン五輪とオリンピックに2大会連続で出場し、日本競泳界に貢献してきた伊藤華英さんは現在、JOCオリンピック・ムーブメントアンバサダーとしても活動をしています。プライベートでも平井さんと親交が深い伊藤さんに、自身の現役時代のこと、オリンピック、パラリンピックに対する思い、スポーツやアスリートの役割等についてお話をうかがいました。


TOKYO 2020 PRステーション(撮影:竹見 脩吾)


平井理央さん(以下、平井):初めて華英さんと話をしたのは引退してからですよね。競泳チームを取材させていただいたことはあるけれど、個人的にインタビューをさせてもらったことはなくて。引退された直後に共通の知人アスリートの結婚パーティーで会った時に、引退して今度ピラティスの資格を取るんですって言っていて、第二の人生の始まりの速さに驚いたのを覚えています。

伊藤華英さん(以下、伊藤):その頃はまだ引退直後で、アスリート感が残っていてギラギラしていたかもしれないです(笑)。ちょうどセカンドキャリアに向けて頑張っていこうとしていた時期で、やれることはなんでもやってみようと思っていました。引退すると、ほとんどのアスリートは何かを失った気分になると言いますが、私は全くなかったです。むしろとてもポジティブでハッピーな気持ちでした。

平井:それはやっぱり、やりきったからですか。

伊藤:もちろんそうです。2009年に膝を脱臼して、それまでは世界ランク1位とか2、3位というところで背泳ぎをやってきたけれど、種目を変更した自由形は世界大会で決勝に残るのが目標になるくらいだったので、その頃からセカンドキャリアを考え始めました。自分の引退が見えてきて、がむしゃらに頑張っているというよりは、将来を見据えて競技を続けていこうと思っていたので、逆に早く辞めたいという気持ちになってしまっていました。でも、オリンピックに2回出場すると決めていたので我慢していた感じです。

平井:逆に言うと、アスリート時代というのは苦しかったのですか。

伊藤:記録とか順位とか、周りから見たアスリートの成功というのははっきりとしていると思うのですが、私はメダルを取る意味って何だろうってずっと考えていました。だけど、メダルを取るためにはそういうことを考えるべきではないという思いもあって苦しかったですね。多分、メダルを取ることが人生の意味になっている人はいいのですが、私の場合はメダルを取ることが自分の人生でどんな意味があるのかなと思ってしまっていました。ケガしたのはそういうメンタルで悩んでいた時です。コーチから「競技は人生の縮図だから、ここで諦めてしまったら諦める人生になるぞ」と言われて、それは嫌なので水泳と誠実に向き合って頑張らなければという気持ちになりました。それが19歳の時です。


撮影:竹見 脩吾


中学3年生で初出場の全日本選手権はシドニーオリンピックの選考会

平井:そもそも競技を始めたのは何歳からですか?

伊藤:水泳は6カ月でベビー水泳を始めて、タイムを計る競技として本格的に始めたのは6歳です。

平井:オリンピックを目指すようになったのはいつぐらいですか?

伊藤:中学3年です。中学受験のため小学5年、6年の時は水泳を辞めていました。中学は部活に必ず入らなくてはいけなくて、どこに入ろうかと迷っていた時に、同じクラスの友達が水泳部に入ろうと誘ってくれたのがきっかけで再び水泳を始めました。その子は私が小学校3年の時に出たJOCジュニアオリンピックカップの平泳ぎで優勝していて、スイミングクラブに移籍する間、部活で一緒に練習してくれないかということでした。その子がスイミングクラブに移籍してしまった後は、練習相手がいなくなってしまったので、私もスイミングクラブに戻りました。泳げばタイムが速くなってどんどんベストが出たので中学3年までは水泳が楽しかったです。


TOKYO 2020 PRステーション(撮影:竹見 脩吾)


平井:その頃からオリンピックを意識し始めたのですね。

伊藤:中学3年で日本選手権の参加標準記録を切って、初めて日本選手権に出たら決勝まで残って6番になりました。その初めて出た日本選手権はシドニーオリンピックの選考会でもあって、中村真衣さん、萩原智子さん、稲田法子さんらメダリストがいて、その次に寺川綾さん、中村礼子さん、私でした。


TOKYO 2020 PRステーション(撮影:竹見 脩吾)


平井:日本で一番大きな大会で、みんなが照準を合わせてくる大会に出場したということで自分の中で変わったことはありましたか。

伊藤:その日本選手権で鈴木大地さんを育てた鈴木陽二コーチに声をかけていただき、そこから寮生活に入りました。間違いなくこの大会がキーポイントになりました。

平井:寮生活に入って、そこから生活の全てが競泳になっていくわけですが、2004年のアテネオリンピックは残念ながら出場を逃してしまいました。

伊藤:はい。頑張っているだけでは出られないのだと痛切に感じました。信念とか目標をしっかり持っていないとだめなんだ、それらをしっかり持って向かっていく結果がオリンピアンなんだということに気づきました。

平井:技術や自分の身体というのではなく、精神的なところでオリンピックに届いていないと感じたのですね。そんな2004年があって2008年北京オリンピックに初出場しました。ケガをしたのはその翌年ですが、その時はどういう状況でしたか。

伊藤:2009年は全日本代表のキャプテンでした。ローマで行われた世界水泳選手権は400m自由形リレーだけに出場して、日本新記録を出せたのですが、その後にケガをしてしまい、残りの大会期間中は事務作業をしたり、選手のサポートをしたりしていました。

平井:そこからはケガとの戦いですか。

伊藤:リハビリをしながら泳ぐことで色々な経験をしました。リハビリ中にいろいろな競技の選手とも出会ったので視野がぐんと広がりました。


TOKYO 2020 PRステーション(撮影:竹見 脩吾)


平井:競技種目を変更して、ロンドンオリンピックを目指したのはなぜですか。

伊藤:背泳ぎではオリンピックに行けたとしても、全力で泳げないだろうというのがありました。膝もそうですが、当時、ヘルニアもやっていたので、一生懸命泳げば泳げるけれど、その後の後遺症や120%で泳いだ後に耐えられるかなどを考えて自分で決めました。ロンドンオリンピックで現役を終えるというのは決めていましたが、結果というよりは自分の実力を出し切れるレースで終わりたいという気持ちがあったので苦渋の決断でしたけど、自由形で行きたいと先生に言いました。そこには日本の自由形を強くしたいというのと、自分が入ったことでもっと頑張らなくてはと思う選手もいるだろうという思いもありました。今までは自分自身が結果を出したいと思っていたけれど、チームのために泳いで引退してもいいのかなと。

平井:選手としては最後と思って出場したロンドンオリンピックで、一番感じたことは何ですか。

伊藤:全体的にいいオリンピックだなと選手として肌で感じました。ボランティアの人も明るいし、選手村も清潔でしたし、布団もカラフルで。そういうのも気持ちが上がりましたね。日本チーム自体も新たにマルチサポートハウス(選手が最大限のパフォーマンスを発揮できるように、文部科学省が適切な準備を行うための環境を提供するサポート拠点)が入って食事も日本食が食べられたり、サポート体制ができている状況だったので、北京やその前の組織とは違っていました。


撮影:竹見 脩吾


平井:二度の五輪出場を経て、引退され、セカンドキャリアとしてピラティスのインストラクターの資格を取ったり、大学にも通われてましたが、大学ではどういうことを学んだのですか。

伊藤:オリンピックに出たという実績だけでは生きていけないなと感じたので、さらに、自分が育った場所をしっかり勉強したいと思いました。JOC、JSCって何なのとか、文部科学省はそれらにどう関わっているのという基本的なことや、お金の流れの仕組み等を知っておきたいと思い、スポーツマネージメントを勉強しました。

平井:どういうところにいたと感じますか。

伊藤:課題も多いシステムですが、きちんとサポートされていたんだなというのが実感です。結果を出した選手にはこうしてあげたい、選手を育てたいという仕組みがあることを知りました。それと、スポーツはいろいろな人に助けられていることにも気づきました。私の大学院の修士課程の同期は8人いましたが、マネージメント会社を経営していたり、Jリーグのチームを運営していたりで、アスリートは私一人。運営側や経営側の人が多かったので、すごく勉強になりました。


TOKYO 2020 PRステーション(撮影:竹見 脩吾)


パラリンピックは社会にコミットした役割を持てる大会

平井:先ほど東京商工会議所内にできた「TOKYO 2020 PRステーション」を見学しましたが、そこにパラリンピックの紹介コーナーでパラリンピックが2回開催されるのは都市として初めてとありました。パラリンピックについてはどういう期待や懸念がありますか。

伊藤:オリンピックとパラリンピックの役割は少し違っていて、社会課題への意識を広く持つことができる大会なのではないかという思いがあります。人生100年時代とも言われていますから、パラアスリートをサポートする技術が介護等にも生かせるようになればと期待しています。海外に行くと障がいのある方が日本よりもっと街に出ているように感じます。そういう社会になるための役割がスポーツにはあると思うんです。スポーツ庁長官の鈴木大地さんがスポーツは言語だと言っていますが、言葉が通じなくても障がいの程度が違っていても、楽しむことができるのがスポーツです。3月に行われた「あすチャレ!運動会 日本一決定戦!」に参加してパラスポーツを体験した時に、改めてパラスポーツは誰もが一緒に同じレベルで楽しめるなと実感しました。

平井:パラスポーツは競技によっては、よりその競技性が濃く出るということもありますよね。例えば視覚障害者柔道は組んでから始めるから技がたくさん出るとか、豪快な技が出やすいとか、そういう面白さを感じやすい面もあるので、スポーツ初心者が見ても楽しめる部分が多いのでは。

伊藤:パラリンピックの水泳の選手がこんなことを話してくれたことがあります。自分たちは0(ゼロ)以下で、一般の人よりも持っているものが少ない。けれど、それを出し切れる、出し切る姿を見せたい。オリンピアンは持っている能力が優れているので違う人だなって思うかもしれないけれど、僕たちのことはもっと身近な存在として見て欲しいと。パラの選手はひとりひとり身体の使い方が違うので、私はそれも面白くて、それぞれが自分なりの身体の使い方を見つけたうえでパラリンピックの舞台に立っているのがわかります。感覚を研ぎ澄ませて、自分の持っている身体で最大限にパフォーマンスしている姿は、ぜひ見て欲しいです。


撮影:竹見 脩吾


アスリート自らが競技の魅力を発信し競技ファンの底上げを

平井:華英さんが個人的に2020年でぐっと変わって欲しいこと、期待していることはありますか。

伊藤:スポーツに対する意識とアスリートの意識が変わって欲しいですね。選手、コーチ、スタッフがそれぞれの立場の責任をもっと考えて欲しい。この人が言ったからではなく、自分たちの考えのもと責任感を持って、それぞれの価値を上げて欲しい。それと子供たちに伝えるスポーツの在り方もそうです。苦しいとか鍛錬だけがスポーツではなくて、フェアプレイや努力することの大切さ等を伝えてみんなで楽しめてコミュニティの場になるという、すごく可能性があるのがスポーツだということを認識して欲しいです。

平井:スポーツは得意、不得意で最初に分かれてしまって、不得意の方に入ってしまうとなかなか触れる機会がなくなってしまいますよね。私もスポーツが不得意な方ですけど、会社に入ってスポーツ番組を取材しているうちにスポーツを好きになって世の中にこんなに面白くてワクワクできる分野があったんだ、知らなかったのはもったいなかったと思いました。スポーツが不得意でも見るのは楽しいとか、不得意でもできる競技があるとか、そういうことに気づける東京2020大会になるといいですよね。北京オリンピックで現地取材をして、オリンピックはみんなの鼓動が高まる瞬間を一緒に感じられる、その一体感は本当に得難くて、他ではなかなか経験できないものだと感じました。それを東京で多くの人が感じたら、またスポーツの見方が変わる転機になるのではないでしょうか。


撮影:竹見 脩吾


伊藤:大会期間だけで盛り上がりが終わってしまうのでは寂しいです。楽しかったね、感動したね、メダリストいっぱい出たね、だけでは。オリンピックでしか脚光を浴びないマイナースポーツもありますし、いろんな競技を知って欲しいというのもあります。日本人はまだまだ多くの競技を知らないので、競技のルールや面白さを知ってもらって、オリンピックが終わってもスポーツが盛り上がり続けて欲しいです。

平井:競技の魅力はメディアが伝える面もありますが、今はSNSが発達しているので選手自身が発信することもありますよね。自分のプレーについて、どういうところを見て欲しいのかをもっとアスリート自身が発信できるようになっていくと、また競技の認知度や人気が上がっていくのではないでしょうか。

伊藤:選手からは、一般の人に戦術や作戦をもっと知って欲しいという声を聞くことがあります。今後、次の世代、時代には、アスリートにも競技の魅力を自分の言葉で伝えられるインテリジェンスが必要になってくるように思います。これからどんどん発信して、どんどん“アスリート語録”を増やして欲しいです。

平井:スポーツ中継の現場に携わっていましたが、スポーツの魅力を伝えるためにテレビでは、視聴者にわかりやすいように心がけるというのが一番にあり、誰もが共感できる人間ドラマということになります。ケガを乗り越えたとか、コーチとの絆とかは普遍的なものだから。

伊藤:そうですね。さらに気運を高めるためにも、そのようなことが必要ですね。

平井:そこでファンを掴んで、そこから第二段階として競技の面白さを伝えていくという段階を踏んで、一段上がった状態で2020年が迎えられたらいいですよね。


TOKYO 2020 PRステーション(撮影:竹見 脩吾)



撮影:平井 理央


Profile

伊藤華英

競泳オリンピアン

1985年1月18日生まれ、埼玉県出身。ベビースイミングから水泳を始め、2000年に15歳で初めて日本選手権に出場。2004年アテネオリンピック出場確実と騒がれたが、選考会で実力を発揮出来ずオリンピック出場を逃す。オリンピックにどうしても行きたいという強い気持ちで、2008年に女子100m背泳ぎ日本記録を樹立し、北京にて初めてのオリンピック出場を果たす。2012年ロンドンオリンピックまで日本代表選手として日本競泳界に貢献し、2012年10月の国体(岐阜)の大会を最後に現役から退く。引退後はピラティスの資格取得とともに、水泳とピラティスの素晴らしさを多くの人に伝えたいと活動中。

 

撮影:竹見 脩吾


【編集後記】
東京2020大会でスポーツ界がどんな変革を迎えるのか、社会にどういうレガシーを残すのか、伊藤華英さんと話していると少しずつその輪郭が見えてくる気がする。
アスリートとして五輪を目指し、引退後にスポーツ界そのものを研究し、大会組織委員の広報としても活躍する彼女の言葉は、スポーツへの信頼と期待が溢れている。
開催まで1年が迫り、選手が大会へ向け努力を続ける中、その大会の先へ何を残せるのか、
並走して尽力する関係者の方たちの姿からも目が離せないと感じた。



撮影協力:「TOKYO 2020 PRステーション」
開館期間:開館中~2019年9月30日(月)まで
開館時間:月~土 7:00~23:00 ※日曜・祝日は休館
所在地:東京都千代田区丸の内3-2丸の内二重橋ビル 1階 東京商工会議所「多目的スペース」



東京2020オリンピック・パラリンピックについての詳細はコチラ!
最新情報も随時更新中!
https://www.jtb.co.jp/sports/tokyo2020/

平井理央

Profile

平井理央

1982年11月15日、東京生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、2005年フジテレビ入社。「すぽると!」のキャスターを務め、北京、バンクーバー、ロンドン五輪などの国際大会の現地中継等、スポーツ報道に携わる。2013年より、フリーで活動中。趣味はカメラとランニング。著書に「楽しく、走る。」(新潮社)がある。