福井県では、日本で生産されているめがねフレームの9割以上を占め、現在イタリア、中国と並ぶ、めがねの世界三大生産地の一つとして知られている。その中でも鯖江市は特にめがね産業が盛んであるため、めがね=鯖江というイメージがあるが、福井県で初めてめがねづくりが行われたのは実は現在の福井市。そこから広まっていき、福井県一帯でめがねづくりが行われるようになった。
増永五左衛門 写真提供=増永眼鏡
めがねはもともとヨーロッパで使用されていたが、16世紀に宣教師フランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされた。そして、17世紀には長崎で初めてめがねが作られ、その製造場所は江戸、大阪、京都へと広がった。
福井県にめがねの製造技術が伝わったのは、20世紀に入ってからのことだ。当時の福井県は農業が主な産業だったが、冬はたくさんの雪が降り、外での仕事ができず、庶民の生活はとても貧しかった。そこで、当時豪農として知られた増永家の長男、増永五左衛門(ますながござえもん)は、地元の人たちの暮らしを向上させるために、めがねの製造を始めることにした。これからの時代、教育の普及とともにめがねは欠かすことができないと考えたからだった。
昔の勤務風景 写真提供=増永眼鏡
明治38年(1905年)には大阪から職人を招いて技術を習得。農閑期の手内職としてめがねづくりが広まった。このとき製造に携わったメンバーは「増永1期生」と呼ばれ、中心となって技術を伝えていった。その後も東京から職人を呼び寄せ、優れた製品づくりと販路を開拓。しだいに福井のめがねは知られるようになっていった。
昔の勤務風景(帳場制) 写真提供=増永眼鏡
福井県のめがねは品質が良いことでも知られているが、その理由の一つに「帳場制」が挙げられる。「帳場制」とは、「増永1期生」を親方(責任者)に、弟子が数人つく数人の職人グループによる製造体制のことだ。五左衛門がそれぞれの親方に注文を出し、帳場同士で競いながら技を磨き、より品質のよい製品を生み出していった。
明治44年(1911年)には、内国共産品博覧会で「赤銅金継眼鏡」が有功一等賞金杯を受賞。その後も昭和天皇への献上品を作成するなど、五左衛門たちは福井県のめがね産業を牽引していった。
さまざまなデザインのめがね 写真提供=(公社)福井県観光連盟
さらに、1980年代には、産地全体で軽くて丈夫、さらに金属アレルギーを起こさないチタン製のめがね枠の開発に着手し、世界で初めて成功。こうして福井県はめがねの世界的産地としての地位を確立していった。
現在の福井県のめがねは、専門性の高い少人数企業がパーツごとに分業し、町全体が一つの工場としてめがねづくりを行っている。それぞれの職人たちが目指すのは「最高のかけ心地」。その使命感をもって、高品質で長く使えるめがねが生み出されている。
「めがね会館」外観 写真提供=(公社)福井県観光連盟
「めがねミュージアム」めがね博物館 写真提供=(公社)福井県観光連盟
福井県のめがねについて知りたいのなら、鯖江市のめがね会館内にある「めがねミュージアム」に立ち寄りたい。これは、平成22年(2010年)「作るだけの産地」から「作って売る産地」の実現に向けてリニューアルオープンした施設。めがねの歴史資料を展示するめがね博物館、めがねの手作り体験ができる工房、そして周辺地域で製造されためがね等の購入ができるめがねショップを備えた、これまでにない施設だ。国内唯一のめがね産地の産業観光施設として、多くの人が訪れている。
「メガネストリート」メガネベンチ 写真提供=(公社)福井県観光連盟
「メガネストリート」プロジェクションライト 写真提供=(公社)福井県観光連盟
また、鯖江市では「メガネーランド構想」の下、ハピラインふくいの鯖江駅からめがね会館、そしてサンドーム福井までをメガネベンチやメガネマンホールなどを配した「メガネストリート」を整備。めがねの産地であることを実感しながら街歩きを楽しむことができる。
めがねは日常的に使うものだ。だからこだわりをもって選びたいという人も多いのではないだろうか。品質にこだわるのならば、やはり世界に誇る福井県のめがね。そしてぜひ産地も足を運んでみたい。めがねミュージアムでその歴史や技術などの知識を得ることで、納得のめがねに出会うことができるだろう。