今や定番のファッションアイテムとして人気のジーンズ。ジーンズに使用されるデニムがフランスからアメリカに輸出されたのは19世紀のこと。ゴールド・ラッシュとともにジーンズの原型が誕生し、それが若者のファッションアイテムとして定着した。
日本において、国産ジーンズが作られるようになったのは、1964年の東京オリンピックの頃だ。場所は、岡山県倉敷市の最南端に位置する児島という地域だった。
児島がジーンズの聖地となったのには長い歴史がある。そもそも児島は海に浮かぶ島で、江戸時代の大規模干拓によって陸続きになった地域だった。けれども干拓地は塩分が多く田畑には適さず、綿花の栽培が行われるようになった。以来、児島は繊維の町として発展。大正、昭和時代には学生服の生産が盛んになった。
児島学生服資料館 写真提供:岡山県観光連盟
けれども合成繊維の登場により、学生服の生産は徐々に減少。学生服に代わる生産品として注目されたのがジーンズだった。それまで学生服の生産をはじめ、1950年代にはジーンズの輸入と受託生産を行っていたマルオ被服(現ビッグジョン)は、昭和40年(1965年)にアメリカ(キャントン社)のデニムを縫製し、国産のジーンズを生産。さらに、柔らかくはき心地をよくするために世界初の洗い加工を開始した。この技術は、日本だけでなく世界にも広まり、現在も広く使用されている。
岡山ジーンズ 写真提供:岡山県観光連盟
昭和47年(1972年)には、倉敷紡績(現在のクラボウ)が皇室御用達の藍染めの会社カイハラの協力を得て、初の国産本格的デニム生地「KD-8」を完成。また、翌年には、開発に協力したビッグジョンから「KD-8」を使用した初の純国産ジーンズが誕生した。
伝統的な藍染めの技術を使用したデニムは糸の中心部が白く、穿き込むほどに「芯白(しんぱく)」が現れる。独自の美しい経年変化は岡山ジーンズの魅力といわれている。
また、この開発により、岡山県内では綿花の栽培から、織布、縫製、加工までをワンストップで行うことが可能となり、高品質なジーンズが次々と生み出された。そして岡山ジーンズの名は国内外で知られるようになった。
JR児島駅改札機 写真提供:岡山県観光連盟
児島ジーンズバス 写真提供:岡山県観光連盟
現在、倉敷市の児島地域ではジーンズでの町おこしが行われている。JR児島駅は、自動販売機、エレベーター、コインロッカー、窓ガラス、そして改札機までがジーンズでラッピングされ、「ジーンズステーション」としてジーンズの聖地であることをアピール。さらに、JR児島駅からは、内装もデニム一色の周遊バス「児島ジーンズバス」も運行している。ジーンズショップや染工場、ミュージアムなど巡り、1日乗車券があれば乗り降り自由なので、便利に利用できる。
児島ジーンズストリート 写真提供:岡山県観光連盟
児島ジーンズストリート 写真提供:岡山県観光連盟
児島ジーンズストリート 写真提供:岡山県観光連盟
JR児島駅から1kmほど歩くと、児島ジーンズストリートがある。これは「旧野﨑家住宅」から野﨑の記念碑までの約400mの通りのこと。約40もの地元ジーンズメーカーが軒を連ねてオリジナリティあふれるジーンズを販売し、ジーンズファンに特に注目されているスポットだ。通りの道路もデニムカラーで、暖簾のように吊るされているジーンズや、ジーンズがビルを登っているかのような看板、ジーンズのマンホール蓋など、いたるところにジーンズのモチーフがあり、まるでジーンズのアミューズメントパークのようだ。
「ベティスミス ジーンズミュージアム&ヴィレッジ」 写真提供:岡山県観光連盟
「ベティスミス ジーンズミュージアム&ヴィレッジ」では、ジーンズの歴史や製作工程を紹介している。100年以上前のレプリカや当時使用していたミシンなどが多数展示され、予約すればジーンズのオーダーも可能。また、ジーンズ作りの体験やショップがあるので買い物も楽しめる。ジーンズファンに人気のスポットだ。
60年ほど前に国産のジーンズが誕生し、今では世界に認められるジーンズの聖地となった児島。ジーンズ一色に染まるこの地域を旅して、ぜひジャパンメイドならではの丈夫で着心地のよいジーンズを見つけてみたい。