雲海の中に浮かぶ城跡。美しく幻想的な姿から、「天空の城」「日本のマチュピチュ」と称される。竹田城は日本百名城のひとつである。城下を見下ろす古城山(標高353.7m)の山頂に築かれ、虎が臥せているように見えることから虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)とも呼ばれる山城だ。廃城から400年以上も経った今も、石垣がほぼ当時のままで残っていることから、国の史跡にも登録されている。
天守台
築城については諸説あるが、嘉吉年間(1443年頃)に当時の但馬守護山名宗全が、播磨の赤松氏に対する最前線基地のひとつとして配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりと伝えられている。当時はまだ石垣はなく土塁の城であった。その後、山名氏の重臣である太田垣光景(誠朝という説あり)が初代城主となり、以後七代にわたって城主を務めた。しかし、天正8年(1580年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による但馬攻めにより竹田城は落城し、太田垣氏も滅亡。秀吉の弟である秀長が城代に、その後は桑山重晴が城主となり、天正13年(1585年)には播磨龍野城主であった赤松広秀(斎村政広)が入城し城主となった。
石垣
竹田城が整備されたのはこの頃だ。秀長が竹田城の縄張り(本丸を守るように曲輪の配置や大きさ、高さ、堀の深さや幅などのほか、建物の規模や形を設計すること)を行い、天守台を中心に3方向に大きな曲輪を配置。その規模は南北400m、東西100mにも及ぶ広大なものとなった。
枡形虎口
一方、広秀は現在に残る石垣を完成させるなど、秀吉の支援を受けながら壮大な城へと仕上げていった。城の守りを強固にするために曲輪はすべて石垣で構築し、石垣の折れ「横谷」を利用した複雑な構成に。また、石垣は自然石をできるだけ加工しないで積み上げた「野面(のづら)積み」で大小さまざまな石材を使用している。
また、広秀は養蚕業や漆器産業を奨励。現在に繋がる地場産業の地盤を築き、「仁政の主君」として領民から慕われていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは始めは西軍方に組みしていたが、西軍の敗戦を知った後は東軍として鳥取城攻めに加わり落城させたものの、城下の大火の責任を問われ自刃させられ、竹田城も廃城となった。
立雲峡から望む竹田城跡
竹田城跡までは、道が狭く一般車両の乗り入れが禁止されているため、アクセスは徒歩または天空バスが一般的だ。また、登山道はいくつかあるが、中でも「西登山道」は舗装された歩きやすい道なので、ハイキング初心者でも気軽に楽しめる。「駅裏登山道」や「表米神社登山道」は健脚向け。急な階段や坂道があるので脚に自信のある人は挑戦してみるとよいだろう。
また、時間があったら朝来山の中腹にある立雲峡に登って竹田城跡を一望したい。竹田城跡全体の姿を見ることができるのはここだけなので、雲海の時期などには幻想的な風景を写真に収めようと多くの人が訪れる。
天守台から眺める城下町
静かに時を刻む竹田城跡は雲海や紅葉、雪景色など四季折々に姿を変え、訪れる人達を魅了している。今は新緑が気持ちのよい季節。ハイキングをして山を登り、石垣の残る城跡を巡るなどして、当時に想いを馳せるのもいいだろう。
※雲海が見られる時期は、秋から冬の早朝となります。