海に突き出た巨大な岩山「大野亀」。標高167mの頂上からは、周辺一帯を一望できる。5月下旬~6月上旬には50万株100万本ものトビシマカンゾウが咲くことでも知られ、『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』二つ星として掲載された代表的な佐渡の名所だ。佐渡は佐渡弥彦米山国定公園に含まれ、「大野亀」の位置する北西部の外海府海岸や南西部の小木海岸は、国立公園のハイライト。今もなお手つかずの自然を楽しもうと毎年多くの人が訪れている。
佐渡金山
佐渡の魅力は大自然だけではない。佐渡は、古くから島に続く文化と外から入ってきた文化が融合した独自の文化を育んできた。佐渡の歴史は長く、遺跡の出土品から約1万年前には人が住んでいたことが解明されている。奈良時代にはすでに「佐渡国」として認識され、8世紀後半には天平13年(741年)以降、聖武天皇の詔勅によって日本各地に建立された国分寺も佐渡にも造られるなど、各地から人や物が行き交う島だった。また、江戸時代になると徳川家康が金銀鉱山の開発を進めたことにより、日本各地から人が集まり、同時にさまざまな文化が持ち込まれた。
長谷寺
また、本土とは離れたところにあることから流刑地に定められ、中世までは政争に敗れた貴族や知識人が流されていた。能楽の大成者である世阿弥もその一人で、1434年に時の将軍足利義教の怒りを買い流刑となった。佐渡では、「長谷寺」や「万福寺」を経て、「正法寺」が配所となっていたという。現在「正法寺」にはお腰掛け石が残り、鎌倉後期の寺宝「神事面べしみ」は、世阿弥が雨乞いの舞に使ったと伝わっている。そして毎年6月には(2023年は16日)、世阿弥を偲ぶ「正法寺ろうそく能」が行われている。
薪能
佐渡の伝統芸能としてまず能が挙げられるが、この時の世阿弥によって能が広まったかどうかは不明だ。現在に伝わる能の基盤ができたのは江戸時代のことだといわれている。それは、1604年佐渡代官として渡島した能楽師出身の大久保長安が、2人の能楽師常太夫・杢太夫を連れてきたことによる。彼らが伝えた能は、長い歴史の中で能=武士の教養という枠を超え、村人たちが舞い、歌い、観るという神事能として広がっていった。
牛尾神社
本間家能舞台
佐渡では「舞い倒す」(能にはまって財産を費やしてしまうこと)ということわざがあるほど、能が人々の暮らしの中に溶け込んだものとなっていった。島内には、多いときは200もの能舞台があったといわれ、今でも「牛尾神社」にある島内最大級の能舞台や、「本間家能舞台」など30以上もの能舞台が残り、毎年6月から8月を中心に能が奉納されている。
鬼太鼓
文弥人形
能のほかにも、九州のハイヤ節が佐渡の小木エリアに上陸し、金山の選鉱場で唄われるようになった「佐渡おけさ」、古くから島内の祭礼で舞われ、集落によって同じ舞は一つもないといわれる「鬼太鼓(おんでこ)」、説教人形・のろま人形・文弥人形といった「人形芝居」など、さまざまな伝統芸能が今もなお行われている。
佐渡おけさ
貴族や武士そして町人など、日本各地から訪れた人たちによって入ってきたさまざまな文化が運び込まれ「文化のふきだまり」といわれる佐渡。それらが古くから伝わる文化と融合し、育まれてきた独自の文化は、多彩な魅力に満ち、新鮮な感動を与えてくれる。