松山城から望む松山市の風景 写真:愛媛県観光物産協会
松山城から望む松山市の風景 写真:愛媛県観光物産協会

俳句のまち、子規の故郷 松山

偉人に出会う旅
2022年06月15日
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国内旅行
旅行記

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
生涯のうちに2万以上もの俳句を詠んだ正岡子規。なかでもこの句は子規の代表作というだけでなく、俳句の名作として教科書にも取り上げられ、誰もが一度は聞いたことがあるのではないだろうか。
正岡子規は、明治時代、俳句や短歌に革新をもたらし、ありのままを描写する「写生」を説いて後の近代文学に多大な影響を与えた偉人である。34歳という短い人生の中で、生涯にわたって愛し続けた故郷、愛媛県松山市での子規の足跡を紹介しよう。

正岡子規 正岡子規 写真:松山市立子規記念博物館

正岡子規は、慶応3年(1867年)10月14日(旧暦:9月17日)、現在の愛媛県松山市花園町に生まれた。父親を早くに亡くし、幼少時は祖父である大原観山の私塾で漢学を学び、松山の藩校・明教館の流れをくむ松山中学校に進学。けれども東京に出て勉学することを希望し、明治16年(1883年)に上京した。

子規の家を復元した「子規堂」
子規の家を復元した「子規堂」

子規の家を復元した「子規堂」内
子規の家を復元した「子規堂」内

松山市の正宗寺の境内に立つ「子規堂」は、子規が上京するまで暮らした家を復元したものだ。子規の遺墨などを展示するほか、勉強部屋も再現されている。また、子規が野球に夢中になり、数々の野球に関する句を残したことにちなんだ子規と野球の碑も必見だ。

東京では、旧制一高の前身である東京大学予備門に入学し、夏目漱石と出会う。また、この頃から俳句や和歌を作りはじめ、さらに古俳諧の研究も進めていった。明治21年(1888年)から喀血するようになり、翌年には肺結核と診断され、この頃に口の中がまるで血を吐いたように真っ赤なホトトギスに自分を重ねて俳号を「子規」としたといわれる。

明治23年(1890年)には帝国大学文科大学(現東京大学文学部)哲学科に入学するが、国文科に転科。さらに、明治25年(1892年)には、新聞『日本』に俳句論「獺祭書屋俳話」の連載を開始して注目され、大学の中退を決意し、日本新聞社に入社した。明治28年(1895年)、日清戦争に志願して記者として従軍し、帰国途中に喀血し意識不明の重体となる。

その後は一時期松山に帰郷し、当時英語教師として松山に赴任していた親友・夏目漱石の下宿「愚陀佛庵(ぐだぶつあん)」で静養した。「愚陀佛庵」では、52日の間、1階に子規、2階に漱石が生活し、句会も盛んに開いていたという。

松山市立子規記念博物館の「愚陀佛庵」 松山市立子規記念博物館の「愚陀佛庵」 写真:松山市立子規記念博物館

「愚陀佛庵」は、萬翠荘の裏手に復元され、観光名所として多くのファンが訪れていたが2010年の記録的な大雨で全壊。現在は、松山市立子規記念博物館内で、「愚陀佛庵」の復元を展示するほか、約300点もの資料やレプリカなどを展示。子規の功績や軌跡を紹介している。

松山市立子規記念博物館外観
松山市立子規記念博物館外観 写真:松山市立子規記念博物館

松山市立子規記念博物館内観
松山市立子規記念博物館内観 写真:松山市立子規記念博物館

その後、子規は時間を惜しむかのように、新聞『日本』や明治30年(1897年)創刊された俳句雑誌『ホトトギス』にて次々と作品を発表。写生の重要性を説き、俳句の革新を行っていった。晩年は、結核菌による脊椎カリエスでほとんどの時間を病床で過ごしたが、短歌や新体詩などの作品も生み出し、近代における文学に多大な影響を与えた子規。明治35年(1902年)に死去してからも、子規の俳句や短歌の革新運動は受け継がれていった。

正岡子規生誕地邸跡と俳句ポスト 正岡子規生誕地邸跡と俳句ポスト

現在、松山市では、高校生による俳句の全国大会「俳句甲子園」を開催している。また、市内各所に俳句を投稿できるポスト「俳都松山俳句ポスト」や、俳句投稿サイト「俳句ポスト365」があり、俳句のまちとして子規の志を今に伝えている。

協力=松山市立子規記念博物館、松山市文化・ことば課 文=磯崎比呂美
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