ファン・ボイ・チャウ、ベトナム独立のもう一人の英雄を知る


ホーチミン支店

ベトナムの独立の英雄といえばホー・チ・ミンが知られていますが、彼に先駆けてベトナム独立を模索したもう一人の英雄を知っていますか?占領国フランスからの独立運動を指揮し、初代国家主席となったホー・チ・ミンとも交流がありながら、最近になるまでその活躍がほとんど顧みられなかったファン・ボイ・チャウです。実は彼は、日本とも深い縁と絆があったのでした。

フランスに次々と占領されるベトナム

フランスに占領されたベトナムで、ファン・ボイ・チャウが独立のために活動を始めたのは1904年のことです。その時ファンは37歳、フランスがダナンを砲撃して侵略を始めた1947年から50年以上経っていました。

その50年の間に、フランスはダナンから南部3省、ハノイと次々に占領を広げ、ベトナム支配を巡る清との戦争(清仏戦争)で清に勝利すると、1887年ベトナムを全面的に占領、「仏領インドシナ連邦」として植民地化していました。

フランス占領後にはつぎつぎとフランス風の建物が建てられます

独立支援を求め日本へわたったファン・ボイ・チャウ



1904年にファンは仲間とともに「ベトナム維新会」を結成し、1905年にはなんと、ひそかに日本にやってきました。反仏独立運動の支援を日本に求めるためです。そこでファンは静岡県袋井市の医師・浅羽左喜太郎に出会います。浅羽はファンの熱意に胸を打たれ、知り合いを通じて有力政治家だった大隈重信と犬養毅に会わせることに成功します。

ファンが日本に求めたのは、フランスと戦うための武器の調達でした。しかし大隈と犬養は武器ではなく、人材の育成こそが独立には必要と説き、ベトナムからの留学生を日本で受け入れることを提案します。そこから若いベトナム人学生を日本に留学させる活動(東遊運動)が始まり、1905年から1909年の間に、100人以上の学生が日本で学び交流を深めたのです。

しかし占領国のフランスはこの活動を妨害します。すでに結んでいた日本との協約を理由に、ファンら留学生たちを国外退去させるよう要請、日本にいられなくなったファンたちは中国に逃れ、広東で独立運動を続けるのですが、1925年にフランス軍に逮捕され、ハノイで終身刑を受けます。その後国民からの強い反発を受け恩赦となりますがフエで軟禁生活となり、1940年、独立を見ることなく亡くなりました。

ファンと日本の深い友情

ファン・ボイ・チャウは日本で留学生らと交流していた4年間を「人生で最も華やかな、幸福な時代」と振り返っていたと言われています。この4年間、そしてその後日本を追われ、行き場を失った留学生たちを支え続けたのが浅羽です。浅羽は亡くなる1910年まで支援を続け、その姿に感動したファンは、浅羽の墓に記念碑を建てたそうです。また袋井市には今もなお浅羽ベトナム会という組織があり、ベトナムとの交流を続けています。

はるか100年以上前の、ベトナム人と日本人との小さな出会いかもしれませんが、深い信頼と絆で結ばれた友情は、100年後の現在でも人々の心に広く深く浸透し、今なお人々の心に生き続けて、交流の輪も広がり続けているのです。

ファンゆかりの地フエへ

フランス軍に逮捕され、軟禁生活のなかで亡くなったフエには、ファン・ボイ・チャウの記念碑や記念館などが整備されています。長い間歴史に埋もれ、評価されてこなかった彼の運動と生涯が、少しずつ紹介されるようになってきました。

もちろんフエの魅力はそれだけではありません。フ ランスに占領される前、最後の王朝・阮(グエン)朝の都が置かれていたフエは、今でもそこここに古都の面影を色濃く残しています。王宮を始めフエ宮廷美術 博物館や、天女伝説のあるティエンムー寺など、中国の影響を深く受けていたことが伺える建物が点在し、一方、フランス占領後のいかにもヨーロピアンな建物 も見られ、ベトナムの歴史の奥深さを感じます。

またフエはベトナム戦争時に激戦地となった街でもあります。ベトナム の世界遺産として最初に登録された王宮は、ベトナム戦争時に大半が破壊されてしまい、現在もなお復旧作業が続いています。10年以上に及ぶベトナム戦争が もたらした傷は決して浅くはありませんが、ベトナムの人々は今なおその傷を癒そうとしているようにも感じられます。

世界遺産にも登録されたベトナム最後の王朝・阮朝の王宮。

フエに今なお残るベトナム戦争激戦の跡です。

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