☆ドイツ東西分断の歴史をめぐる・ベルリン散策スポット☆

マイバス ドイツ
フランクくん

第2次世界大戦後に東と西に分断されたドイツ。
首都ベルリンは東ドイツに位置しながらも、東ベルリンと西ベルリンに分かれて統治されることとなり、陸の孤島となった西ベルリンは壁で囲まれました。
ドイツでもコロナウイルスの感染が拡大した今年、旧東ドイツ側で育ったメルケル首相は演説の中で国境封鎖等の措置に関して “こうした制約は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。(出典:外務省ホームページ)” とした上でその必要性を訴え、多くの共感を呼びました。
壁崩壊から30年たった今もなお人々の心に深く刻まれる東西分断の歴史。波乱の20世紀世界史の中心舞台となったベルリンで、その歴史を肌で感じてみませんか?

世界一長いパブリックアート・イーストサイドギャラリー

現存する最長のベルリンの壁跡で、その長さは1.3km。21カ国118人のアーティストによって平和と自由への祈りをこめて描かれた壁画は世界一長いオープンギャラリーです。
100以上ある作品の中でもとりわけ有名なのはDer Bruderkuss(兄弟のキス)。当時旧ソ連の指導者達は懇意にしている各国の首脳らに挨拶や歓迎の意を込めて兄弟のように熱烈なキスをしたそうです。旧ソ連の指導者ブレジネフと旧東ドイツのホーネッカー書記長が接吻している様子は1979年に撮影された実際の写真をモチーフにしています。壁崩壊の10年前、旧ソ連と旧東ドイツの強い結びつきがうかがえる場面です。
絵の下にはドイツ語でMein Gott, hilf mir, diese tödliche Liebe zu überleben(神よ、我を救いたまえ、この死ぬ程の愛を生きぬく為に)と書かれていて、ほぼ同じ意味のロシア語も書かれています。モスクワ生まれのロシア人である作者のDmitri Vrubelは後にインタビューで、キスをしている人物が誰かは自分にとって重要ではなく、ただベルリンの壁とは正反対な愛という100%ポジティブなものを描きたかったと語っています。
Vrubelの作品はイーストサイドギャラリーにもう1点あります。Danke Andrej Sacharow(ありがとう、アンドレイ サハロフ)という、ぺレストロイカの父と呼ばれノーベル平和賞も受賞したソ連の人権擁護活動家アンドレイ サハロフを描いた作品です。こちらもぜひチェックしてみてください。

イーストサイドギャラリー(photo by staff)

悲劇のシンボル・ベルナウアー通り

ベルナウアー通りの東側に建つ住宅は、東ベルリンに位置しながらも窓の外は西ベルリンという状況に置かれた為、壁が建設されて間もない頃には建物から飛び降りて多くの人が西へと逃れたそうです。流出を止めるために建物を封鎖・破壊し、緩衝地帯や監視塔が設けられました。
ベルナウアー通りのベルリンの壁記念館にあるドキュメンタリーセンターの見晴台からは当時のままの壁を見学することができ、実際に壁は西側と東側の2枚建てられていた様子が分かります。この2枚の壁の間の空間は Der Todesstreifen(死の地帯)と呼ばれ、逃亡を防ぐために必要であれば監視塔からの発砲が許可されていました。分かっているだけでも少なくとも101人が壁を越えての逃亡を図って死亡したとされていますが、実際にはその何倍も命を落としたのではないかともいわれています。また、検問所付近で亡くなった人や実際に逃亡に至らなくてもストレスや絶望感によって死亡した人を含めると、その数は計り知れないとも言われています。

ベルリンの壁ドキュメンタリーセンター(photo by staff)

当時ベルナウアー通りにあった和解教会は西ドイツ教区民のものだったにも関わらずちょうど死の地帯に位置していた為に東ドイツ国境警備隊によって爆破されました。壁崩壊後、その跡地に再建された和解の礼拝堂にもぜひ立ち寄ってみてください。礼拝堂の土壁には壊された和解教会の欠片が埋め込まれています。

和解の礼拝堂(©visitBerlin_Foto_Dagmar Schwelle)

また、ベルナウアー通り西端のNordbahnhof内にはGrenz- und Geisterbahnhöfe im geteilten Berlin(分断されたベルリンの国境駅とゴーストステーション)と題した展示があります。一部が東ベルリン内に位置していた路線(現在の地下鉄U6とU8および南北にはしるSバーン)は当時は西側の人々しか利用が許されませんでした。トンネルを通っての逃亡ができないように東側の駅舎は封鎖され、プラットホームには警備隊が配備されました。乗降は許されず、決して電車の停まることがない駅。当時のNordbahnhofはそういった駅の一つでした。通過する電車は速度を落としてゆっくりと走行したため、車窓からは薄暗い明かりに照らされた警備隊員の顔が地下の駅構内に浮かび上がるように見えました。そしていつしか西側の人々はこれらの駅をGEISTERBAHNHÖFE(ゴーストステーション)と呼ぶようになったそうです。

Nordbahnhof(photo by staff)

冷戦の象徴・チェックポイントチャーリー

西と東の間の検問所の内の3箇所を、西側はアルファベット文字を伝達するためのコードを用いてアルファ(A)、ベータ(B)、チャーリー(C)と呼んでいました。この中でベルリン中心部にあったのがチャーリーです。
西側はこれらの検問所を単にKontrollpunkt (チェックポイント)と呼びましたが、東側ではGrenzübergangsstelle("国境"検問所)と呼んでいました。
チェックポイントチャーリーはアメリカ地区とソ連地区の境界上で、ケネディ米大統領もレーガン米大統領もそれぞれこの場所を訪れました。
現在チェックポイントチャーリーにある看板は表と裏が別々の兵士の写真になっています。北側の旧ソ連地区側を向いているのがアメリカ兵、南側の旧アメリカ地区側を向いているのがソビエト兵です。

チェックポイントチャーリー(pixabay)

恐怖の地・トポグラフィーオブテラー

トポグラフィーオブテラーはナチス政権下に国家秘密警察ゲシュタポ等の本部があった跡地です。建物は戦時中に廃墟となったため取り壊され、戦後は隣接するニーダーキルヒナー通りにベルリンの壁が建てられます。その後の発掘調査で壁のすぐ下にナチスの地下牢が発見されました。
現在ではベルリンの壁跡と地下牢跡、民主主義を脅かした2つの史跡の両方を見ることができます。敷地内には資料館がありますが、大部分は更地のまま残されていて、現在のベルリンの賑やかさとは対照的な空虚さを感じさせます。

トポグラフィーオブテラー(photo by staff)

東西統一の象徴・ブランデンブルク門

最後にご紹介するのは、現在は東西統一の象徴とされているブランデンブルク門です。ブランデンブルク門は当時の東ベルリンに位置し、門のすぐ西側にベルリンの壁が建設された為に通り抜けができなくなりました。
1987年、レーガン米大統領はこの門の前で演説をします。彼は、ブランデンブルク門が閉鎖されベルリンの壁が建ち続ける限り、これはドイツだけでなく全人類共通の問題であると語ります。そして、ゴルバチョフもここブランデンブルク門へ来るべきだと言い、この門を開けなさい!この壁を壊しなさい!と当時のソ連最高指導者に向けて言い放つのです。
この演説の約2年後1989年11月9日にベルリンの壁は崩壊を迎えます。ブランデンブルグ門のゲートが開いたのは翌10日午前1時。深夜にも関わらず東西両方から大勢の人が押し寄せ付近は朝までお祭り騒ぎだったそうです。
東西統一によって再び人々が集える場所となったブランデンブルク門。今では、ドイツ統一記念日をはじめとする様々なイベントがここで行われています。

Brandenburger Tor, 1989(Landesarchiv Berlin)

ベルリンの歴史的スポット、いかがでしたか?

ベルリンは広いので、地下鉄などの公共交通機関を利用して散策しましょう。
マイバスのマイガイドならツアー後も使用可能なベルリン市内公共交通機関1日乗車券付きで、日本語ガイドが宿泊ホテルまでお迎えに参ります。

電車の乗り方が不安な方や、より効率的に観光したい方にオススメですよ。
皆様にお会いできるのを楽しみにお待ちしております!

  • オプショナルツアー(現地発着)
    JPY11,328〜
    ベルリンを知り尽くしたベテランガイドの説明を聞きながら、市内に点在する観光スポットを効率よく巡ります。観光からショッピングまで、ご希望に合わせてご自身のペースで観光プランを組めます。解散もホテルまたは市内中心地とお選びいただけます。青空市場やおみやげ選びもガイドがお手伝い!言語に困ることはありません。
    地元の方のように、ベルリンを楽しんでみませんか?

この記事でご紹介したスポット

この記事を書いたレポーター

フランクくん

エリアから探す

地図から探す

記事タイプから選ぶ

旅のテーマから選ぶ

旅行スタイルから選ぶ

日付から選ぶ