ウィーンのお勧め、世界遺産《シェーンブルン宮殿と庭園》の魅力【2024年最新】
シェーンブルン宮殿はオーストリア最大の宮殿。オーストリアには12の世界遺産がありますが、 宮殿と約 160 ヘクタールの庭園は1996 年からユネスコの世界遺産となっています。宮殿だけでなく、庭園内にある世界最古の動物園も主な見どころの一つ。
『シェーンブルン』その名前の由来
ドイツ語で美しいはシェーン(schön)、泉はブルンネン(Brunnen)ですが、ハプスブルク家のマティアス皇帝が 1619 年に狩猟中にここで自噴泉を発見し、「なんと美しい泉だろう!」と喜び叫んだのが由来だとか。
シェーンブルン宮殿 - 宮殿から夏の離宮へ -
1638 年から 1643 年にかけてフェルディナンド 2 世皇帝の 2 番目の妻エレオノーラ・ゴンザーガのために宮殿がこの地に建てられましたが、1683 年のトルコによる第二次ウィーン包囲で大きな被害を受けました。
オスマン帝国の脅威が去った後、神聖ローマ皇帝レオポルト1世が息子のローマ王ヨーゼフの夏の離宮として新しい宮殿を建設することを計画。パリのヴェルサイユ宮殿を模した壮大な宮殿を計画しましたが、当時のハプスブルク宮廷の苦しい財政事情では現実的に困難だったため計画は大幅に縮小されたとか。
そしてその後、1750年頃に宮殿は皇后マリア・ テレジアによって家族のための快適な夏の離宮へと改装されました。
彼女は16人の子供(11人の娘と5人の息子)に恵まれましたが、3歳で亡くなった長女マリア・エリザベート(1737-1740)、胸部に奇形があったために結婚できずその後修道院で過ごした次女マリア・アンナ(1738-1789 )、1歳で幼くして亡くなった三女マリア・カロリナ(1740年生まれ)、そして念願の男の子王位継承者のヨーゼフ(2世)(1741-1790)、マリア・テレジアに可愛がられ唯一自分の夫を選ぶことができた第5子のマリア・クリスティーネ(1742-1798)、娘たちの中で最も美しくフランスのルイ15世の再婚相手の候補とされていたが天然痘で痘痕が残ってしまい結婚できなくなったマリア・エリザベート(1743-1808 )、そして第7子の次男のカール・ヨーゼフ(1745-1761 )は聡明で社交的でしたが天然痘で16歳で死亡、などのシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアと16人の子供たちの暮らしぶりを知ることができます。
バロック様式のこの宮殿は、18 世紀半ばから 1806 年の神聖ローマ帝国の終焉まで帝国皇帝の、その後は第一次世界大戦の終結までオーストリア皇帝の夏の離宮でした。
マリー・アントワネットと神童モーツァルト
マリア・テレジアの16人の子供の15番目にあたる娘のマリー・アントワネットも幼少期に兄弟と共にこのシェーンブルン宮殿で過ごしました。当時6歳だったモーツァルトは「神童」と呼ばれ、シェーンブルン宮殿の鏡の間でマリア・テレジアの御前演奏をしました。演奏後に女帝の膝に飛び乗って何度もキスをしたとか、滑って転んでしまった時に、手をとって助け起こしたマリー・アントワネットに「大きくなったらぼくのお嫁さんにしてあげる。」と言ったとか、有名なエピソードが残っています。
『シェーンブルン・イエロー』
当初、シェーンブルン宮殿の壁には金を使用する計画でしたが、財政状況を考慮して黄金に近い黄色にしました。これは『シェーンブルン・イエロー』や『ハプスブルク・イエロー』、また、『マリア・テレジア・イエロー』とも言われています。赤みがかった黄土色で、ゴールド系オーカー(Goldocker、金色系の黄土色)の石灰顔料から作られましたが、領内のボヘミアがオーカーの産地でした。1780年代にマリア・ テレジアの長男の皇帝ヨーゼフ2世が、ハプスブルク家の建築物をこの『シェーンブルン・イエロー』で塗ることを定め、その後オーストリアを象徴する伝統的な色となり、鉄道駅や政府庁舎、宮殿・修道院・教会の多くに使われ、富裕市民の邸宅などにも好んで使われたそうです。
ちなみに19世紀後半になると、これよりも明るい『ザイテンシュテッテン・イエロー』が好まれたようです。
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麗しのエリザベート(シシィ)
兄弟からシシィと呼ばれていたエリザベートの部屋は生前のまま残されていますが、椅子に腰掛けて長く伸ばした髪を優雅に櫛で梳いている彼女の姿が想像できます。こちらの肖像画ではダイヤモンドの入った《シシィの星(Sisi-Sterne)》の髪飾りが彼女の美しさをより一層増しています。このシシィの星の髪飾りは当時27個作られ、そのうち約8個が現存しているそうです。
1853年8月、姉ヘレーネの見合い相手だった母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて求婚され、1854年4月、シシィは16歳で結婚、オーストリア皇后となりました。
シシィの婚約が決まるとともにお妃教育が始まりますが、勉強嫌いで落ち着きがなく乗馬を愛した彼女は、自由人だった父の気質を強く受け継いでいて、その後も母方の伯母で姑のゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さに耐えられず、さまざまな口実を見つけてはウィーンから逃避し続けました。
ドイツ、バイエルン王家出身のエリザベートは、当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌に加え、痩身の体形を保つために極端なダイエットや美容方法を試しますが、30歳を過ぎた頃から扇や黒のベールで衰え始めた顔を隠すようになります。
1889年、息子のルドルフが若い恋人メアリー・ヴェッツェラとともにマイヤーリング城で自殺した事件はエリザベートに大きな衝撃を与え、それ以来彼女は黒しか着なくなります。
1898年9月の旅行中、エリザベートはジュネーヴのレマン湖のほとりでイタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭い先の尖ったヤスリで心臓を刺され、その生涯を閉じました。
狂王ルートヴィヒ2世
エリザベートは、自身と同じヴィッテルスバッハ家で従甥で「狂王」と呼ばれるバイエルン王ルートヴィヒ2世とは、ワーグナーの音楽を愛し堅苦しい宮廷を嫌うなど似たところがあり、親しかったといいます。エリザベートはルートヴィヒ2世と妹のゾフィーを婚約させようと計画しましたが、美青年を愛し、もともと女性に関心の薄いルートヴィヒ2世が全く興味を示さず婚約を延期の上破棄、エリザベートはこれに怒り二人の仲は険悪になります。
ルートヴィヒ2世は中世騎士伝説に憧れ、心酔していたワーグナーのオペラ「タンホイザー」や「ローエングリン」を連想させる中世の古城、ノイシュヴァンシュタイン城を建設。続けてリンダーホフ城やヘレンキームゼー城の建設を開始。その後ルートヴィヒ2世はますます現実逃避し精神状態は急速に悪化、3つのお城の建設で国費を浪費しますが、精神病を理由に廃位させられ、1886年に謎の死をとげます。
知らせを受けたエリザベートはルートヴィヒ2世が逝去した際には大変なショックを受け精神状態が悪化するほどでしたが、「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした。」と語っています。
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世界最古の動物園
シェーンブルン動物園は現存する世界で最も古い動物園です。1752年にマリア・テレジアの夫の神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世が宮廷メナジェリー(小動物園)として作らせました。
最初のインドゾウは1770年に、その後オオカミやクマが、1800年頃にしろくまやカンガルーがやって来ました。1828年にエジプトからキリンが贈られた時はキリンの大ブームが起こったそうです。服や靴やアクセサリーなどにキリンのモチーフが取り入れられ、キリンの形の髪型が流行ったそうです。
世界遺産となっている《シェーンブルン宮殿と庭園》、時間をかけてじっくりと見学してみませんか。