JTB交流文化賞 Multicultural Communication
JTB地域交流トップページ
JTB交流文化賞
交流文化が広げる未来
第6回 JTB交流文化賞 受賞作品紹介
交流文化体験賞
最優秀賞
パラオでみつけたニッポン
野口 翠
1 | 2

  日本がパラオにもたらした影響に思いを巡らしていた頃、忘れられない出会いが訪れる。アンケートをさせていただこうと家の中をのぞくと、ベッドにおばあさんが横たわっていた。日本から来た学生である、と自己紹介をすると、おばあさんはぱっと目を見開き、「わたし、マツコさんです。」とはっきりとおっしゃった。その後もすらすら口をついて出てくる日本語に、呆気にとられてしまった。「おあがりなさい」というお言葉に甘え、木造の和風造りのお宅にお邪魔した。マツコさんは「レモンスイ」を出してくれ、昔話を聞かせてくれた。聞き足りない私たちは、日を改めてお泊まりにうかがい、夜な夜なお話を伺った。マツコさんは公学校に5年通い、一生懸命日本語を覚えたそうだ。島を半周する遠足が楽しかったこと、大勢の兵隊さんがいたこと、日本人のご主人のもとで働き、日本に連れて行ってもらえたこと。驚くほどはっきりした日本語で、当時のことを教えてくださった。最後に、大切に保管してあっただろう、クラス写真を見せてくれた。男の子は坊主、女の子は皆そろいのおかっぱ髪、制服の正面には、全員、日本人の名前がカタカナで書かれている。マツコと書かれた少女は、確かに、今目の前にいる老婆にちがいないのだった。「またいつでもお茶を飲みにいらっしゃい。ここで毎日、窓から外を見ていますから。」まるで、日本の田舎でおばあちゃんと話しているかのような安心感を覚えた。いつしか、パラオは私の第二の故郷のようになっていた。

  渡航前、日本が支配下においた歴史があることを知ったときは、反日感情を抱いている人が多いのではないかと緊張していた。しかし、その心配は大きく覆された。「ワタシ、ニホンスキヨ」満面の笑みでそう言ってくれたYolsauさん。私たちの名前をすぐに覚えてくれて、「あなたたちに出会えて、日本語を思い出すことができて嬉しい」といいながら、何度も名前を呼んでくれたKyiariiさん。日本語を忘れないように、手に入りにくい日本の漫画を何度も繰り返し読んでいるというおばあさん。私たちの出会ったパラオ人は、日本に対し好意的な感情を持つ人ばかりであった。とはいえ、占領統治、そして戦争があったこともまた事実である。当然、負の感情を抱いている人もいるだろう。しかし、方向性はどちらにせよ、日本が及ぼした影響が物質面でも、精神面でも、これ程まで大きかったという事実を、これまで知らずにいたことが、恥ずかしかった。歴史の生き証人から直接、日本語で語られた歴史は、ずっしりと重く、心に染み入った。

  日本が好き、と言ってくれた彼らの期待に、胸をはって応えられるような「つながり」を作りたい。滞在期間も残りわずかになった頃、お世話になった方々への恩返しをはじめた。
  まずは、キンロウホウシに参加させていただいた村の人々へ。屋根葺きを手伝ったことが功を奏したのか、本来、女人禁制であるアバイの中で、カメの煮つけをいただくこともあった。夜釣りの船に便乗させてもらい、満点の星空の下、とれたてのシャコ貝をいただいたこともあった。食には食でお返しをと、獲ってもらった魚を使って、ちらし寿司を作ることにした。しかし、日本でも、ろくに魚をさばいたことなどない私たち。ガタイのよい熱帯魚を、悲鳴をあげながら切り刻んだ。悪戦苦闘の末、だいぶ身の量が減ってしまったが、なんとかちらし寿司を飾るお刺身が完成。皆で食べていただくことができた。  たくさんのフルーツを恵んでもらった村では、調査中に発見した「地域の魅力」のフィードバックを行った。パラオの伝統集落では、家々を結ぶ石畳の道がみられる。急なスコールが多く、泥の道はぬかるんでしまうため、石畳が有効に機能するのだ。車道が整備された今日では、多くの場合、主要道ではなくなっていて、藪で覆われていることもしばしばだが、苔むした石は、なんともいえない風情を醸し出すものだった。そこで、私たちが感じた集落の魅力を村人に伝えるとともに、日本にも石畳の道(熊野古道)があり、立派な観光資源になっていることを紹介した。人口流出に悩む村の人々が、少しでも自分の村に誇りをもつきっかけになれば、との思いからだった。その数日後に村を訪れると、今まで気づかなかった場所に、石畳が顔を覗かせているのが目に入った。なんと、村人によるキンロウホウシで、石畳周辺の藪刈りと清掃が行われていたのだ。思いが伝わり、日本とパラオの「つながり」強化の第一歩を踏み出せた気がして、とても誇らしかった。こうして、50日間にわたるパラオ滞在は幕を閉じた。

  ところが、日本へ帰って半年もしないうちに、ショッキングな報せが届いた。マツコさんが、亡くなったという報せだった。こうして、日本統治時代のことを知る人が今にも減りつつあるという事実に、愕然とした。彼らの多くは80歳前後。数十年後には確実にこの世からいなくなってしまうのだ。マツコさんには、まだ恩返しができていなかった。今、私にできる恩返しは、パラオ滞在を通じて肌で感じた歴史を忘れず、少しでも多くの人に伝えていくことだと思っている。そしてこれからも、過去の歴史が培ってきた「つながり」を絶やさぬよう、自分なりのパラオとの関わり方を模索し続けたい。



評価のポイント
  パラオ共和国に調査で訪れた筆者が、かつて日本の統治下に置かれていたパラオに、現地での出会いから多くの「ニッポン」が残されていることを見つける。筆者が肌で感じた歴史を多くの人に伝え、今後も自分なりのパラオとの関わり方を模索しようと誓う。地域の方々と気さくな交流の中に「日本」を見つめ直す機会を得たことが緻密に描かれている作品。

<< 前のページへ

※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。