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林芙美子と歩く尾道の旅
藤川 堯子
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  年譜によれば、二十七日『主婦の友』の連載記事『名物食べ歩き』の取材のため銀座の『いわし屋』へ行き、試食。さらに深川の『みやがわ』で少量のうなぎを食べて帰宅。間もなく苦悶を始め、翌二十八日午前一時頃持病の心臓発作にて永眠する、とあった。その頃の芙美子は忙しいスケジュールで過労が重なり、階段を上るのも息を切らせ、人に後ろから押し上げて貰わないと上れないほど心臓を弱らせていた。
  葬儀の時の川端康成の挨拶によると、「故人も生前は色々な人の反感を買うようなことをしたり、言ったりしてきているようですが、仏となった今は全てを水に流してやってほしい」というような言葉で結んでいる。小さい時から大難をはねのけて今の地位を手に入れた芙美子にしてみれば、後から後から華々しく出てくる新鋭の女流作家たちは、すべて脅威のライバルだったのだろう。彼女たちへの風当たりは強かったようだ。余談ごとではあるが、三島由紀夫が芙美子の葬式に出かける時、式服に着替えながら 「何でオレがあの馬鹿女の葬式に、こんな暑い中行かなければならないんだ」 と洩らしたという逸話を何かの本で読んだことがあった。
  私は持光寺、光明寺、宝土寺を巡り、千光寺からの眺めが見たくて、市内巡回レトロバスに乗ってロープウェイ乗り場に行った。ロープウェイの隣に乗り合わせた清々しいアベックが盛んに昔の尾道の話をしている。話に耳を傾けていると、女の方が尾道の住民らしく、他所から来た男を案内している様子だ。女は白いポロシャツに何気ない木綿のスカート、男もポロシャツにチノパンといった流行を追わない格好がかえって爽やかだった。まるで一昔前に流行った大林宣彦監督の尾道を舞台にした映画の登場人物が、今再び登場したくらいの年頃のカップルだった。二人の会話は、尾道の話からコロコロ変わって文学の話になっていく。
  「蒲団って、誰が書いた小説だった?」
  「あ、聞いたことある。読んだことはないけど、試験に出た」
  「作品と作家を結びつける問題がよう出よったな。でも気になるなあ。俺読んだことがあるんじゃけど、なかなか作家が思い出せん」
  「気になりだしたら先に進まんのじゃろう」
  「俺、そう」
  二人の会話を聞いていて、年寄りの要らん節介が頭をもたげる。
  「田山花袋じゃない。読んだことはないけど、私も学校で暗記させられたから、蒲団って言うと反射的に田山花袋って名前が出てくるだけなんだけど」
  そんなことから感じいい二人と仲良くなって、文学の小路を三人で歩いた。“海が見えた”の林芙美子の文学碑の前でシャッターを押してあげる。ファインダーの中の二人は、石碑と明るく素朴な尾道を背景にして、まさに大林監督の青春映画の主人公だった。
  文学の小路の各所にゴロンと寝そべったように配置された大きな自然石には、尾道を通りすがり舞台にした歌や文が彫られている。緑の五葉松の間からは東西に伸びた尾道市内と尾道水道が横たわり、船が白い尾のように波を引いているのが見える。
  二人と別れて一人で千光寺参りをした。線香の匂いがしめやかに身体にしみわたり、心を洗う。志賀直哉が突きに来たという、鐘楼の鐘を見る。山肌の各所に見られる、今にも落ちてきそうな大きな石。千光寺は何時来ても朗々として人々を迎えてくれる。
  やがて日も傾き、私はてくてく石段の坂道を歩いて林芙美子文学記念館を訪れた。もう何度も来て見慣れているものばかりだが、尾道に来ると必ずここに足が向いてしまう。
  「お芙美さん、また来たよ」
  大島絣の着物の袖の辺りにそっと触れてみる。傍らの雑誌のグラビア写真とは、少し柄の位置が違うのは洗い張りをして縫い直されているからだろう。
  前にも言ったとおり、私は林芙美子の作品を読んだことはなかった。八年前尾道に来て初めて『放浪記』を読んだ。今でも小説はあまり読んでないが、やはり尾道の宝土寺下付近に間借りしていた母の元に帰省した折書かれたという、ある種ノンフィクション的な『風琴と魚の町』が逸品だと思う。
  記念館を訪れる客も閉館前とあってまばらになった。係員の初老の男性が、芙美子の尾道でのエピソードなど話してくれた。だいたいが尾道市立図書館が発行した八十周年記念冊子に書かれていたことなので知っていたが、とても人柄の良さそうな係員なので、しばらく話し込んでしまった。芙美子が亡くなった後、文学記念碑が建てられた時には、夫の緑敏氏と養子の泰ちゃんが出席された様子など聞かせてくれた。
  「とても可愛がっておられた一人息子の泰ちゃんも、学習院の遠足の時電車に乗っていて頭を打ったのがもとで亡くなったんですよ」
  「まあ、そうだったんですか………」
  「生きておられたら、さぞ悲しまれたことでしょうな」
  係員はしんみりした口調で言った。
  「人生の辛苦をなめてこられた方だけに、小説も旨いだけでなく深みがあります」
  私が、東京中井にある林芙美子記念館で見てきた様子を話すと係員は、「もしよければ後十分くらいでここを閉めますから、林芙美子の研究をされている方のお家がお近くですので伺ってみませんか? 面白い話が聞かれるかも知れませんよ。私も届け物があるのでお連れしますよ」
  私は一人旅の気楽さもあって心が動いた。今回の旅は物見遊山というより、芙美子と共に歩く旅、と心に決めて出てきた。何か面白い話の一つも聞かせて貰えるのではないか。そしてそれは尾道に一歩近づくことにもなるのではないかという期待も膨らんだ。
  「ご迷惑でなければ」
  「五時になったらここを閉めますので、ちょっと廊下で涼んで待っていてください」
  私は団扇を使いながら、五時になるのを待った。日は傾きかけている。ホテルの海側を取ったのは、尾道水道に夕日が落ちてゆく中を忙しげに船が帰ってゆく、夕方から夜に移行する風景を見たかったからだ、という思いが吹き上げてきた。芙美子の話も聞きたいけれど、初心も捨てがたい。内心迷っていた。係りの人はすでに片づけを始めている。やはり又とないチャンスだから、お誘いに乗ろうと決心した時、一人の若い男が入って来た。彼はゆっくりと廊下を歩き、芙美子の直筆の原稿やら、井伏鱒二の直筆に見いっている。仕事に忠実な
係員は男に説明を始めた。
  「あの、私ホテルで食事も取らないといけませんので、やはり今日は失礼いたします」
  「かえって済みませんでしたね」
  記念館を出ると、私は片日陰の坂道を下った。途中の閑静な住まいの入り口に置かれたパンフレットを一部貰う。あじさい忌の案内と、あの頃のこと、と題して放浪記時代の物価とか日本の情勢を説明するものだった。
  もしかして、私を案内して下さるというのはこのお宅ではなかったのだろうか? 私は少し残念な思いを噛み締めながら、瀟洒な入り口の表札を見上げた。
  ホテルに帰ると、南向きの総ガラスの窓には、パノラマのような尾道水道の夕暮れの風景が広がっていた。タバコに火をつけ、缶ビールのプルトップを抜く。夕日が悲しいほど燃えて、今日という一日に終わりを告げる。見ていると心が解き放たれ、じんわりと癒されてゆくのが分かった。優しい時間がそっと手を伸ばして私の身体を揉み解す。
  尾道と出会えてよかった。
  尾道への旅は、母が私にくれたプレゼントのような気がしている。つつじで彩られた五月の尾道、猛々しい入道雲を山の頂に仰ぎながら、汗だくで坂道を登り寺々を巡った盛夏の尾道、林芙美子のあじさい忌に当たる頃の六月末の尾道、取り壊されていく雁木を見て、揚げ物屋やばんよりを偲んで立ち止まった晩秋の尾道、どの場面を振り返ってみても優しさに変わりない尾道の姿があった。その中でも私が特に好きなのは、初夏のけだるい陽光の中で見る、ちょうどあじさい忌に当たる今頃の季節の活気に溢れた尾道だった。

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