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大鹿歌舞伎
妻鹿 弘子
 長野県大鹿村は、伊那谷の奥深く、急峻な山裾にへばりついた僻地だった。しかし道路網が発達した今は、標高三千メートルを越える、南アルプス塩見岳の登山口として賑わい、大勢の登山者が訪れる。
私も友人と9月初めの塩見岳を目指した。
松川で高速道路を下り、小渋川沿いに車を走らせる。カーブの多い山中を一時間近く走り、大鹿村へのトンネルを抜けると、歌舞伎の絵看板があった。
ここには二百数十年も続く民俗芸能、大鹿歌舞伎がある。
まだ高速道路もない四十年も前に、私は旅行誌でそのことを知ったが、当時はおいそれといけるような所ではなく、幻の地として記憶の中で風化してしまった。
うかつな話である。
タイムカプセルを開けたような懐かしい気持ちで、初めて訪れた村の景色をながめた。
塩見岳から下山後、村の観光案内所に寄ってみた。山々の写真と並んで、大鹿歌舞伎の衣装や写真が展示してある。係員に歌舞伎のことをたずねた。
「長い間、気になっていたんですよ。でも、昔は不便で来られなかったし、便利になった今はたいへんな人出でしょう。歌舞伎見物も人の頭の間から背伸びをして見るのは面白くないし。思うようにはならないわねえ」
というと、係員のYさんは
「確か二週間後に臨時公演が決まったはず。
定期公演は混むけれど、臨時公演は役者の仕事の都合で突然決まるのですいていますよ。ぜひいらっしゃい。宿も紹介するし」
と誘ってくれた。日にちが間違ってはいけないからと、役場に電話で確認してくれる念の入れよう。
その日は計ったように、午後から翌日まで一日半だけ空いている。
チャンスが向こうからやってきた。これを見逃す手はないと、友人二人を誘い当日の午後から、また大鹿村に車を走らせた。
大鹿村・大河原地区の段々畑の急斜面を登りつめた所にその民宿があった。
狭い敷地の目の下にブルーベリーの畑が広がっている。目を上げると、三千メートルの赤石岳が山々の間にそびえたつ。
宿の玄関の板敷きには、風呂敷包みやビールのケース・座布団などがごたごたと並び、新聞紙にキノコが広げてあった。
部屋に荷物を置き、まずはお風呂と、近くの温泉まで足をのばした。露天風呂を楽しんで戻ると、観光案内所のYさんが来ていた。
民宿の奥さんが
「Yさんの車に乗せていって貰いなさいよ」
とすすめてくれ、Yさんは
「はい、その荷物を車につんで」
と玄関のごたごたを指差す。人使いの荒い人だとおもいながら、座布団やら風呂敷包みを言われるままにYさんの車に運んだ
「さあ、乗って、乗って」
と、私たち三人もあっという間に車に乗せられて、会場のお宮に連れて行かれた。

 それほど広くない境内は、いっぱいにシートが敷かれていた。見物席は村人とその他の人の席が分けてあるようだったが、私たちは前の方の村人席に案内された。
 どうやら観劇用品一式らしい荷物を、車から運び出して並べた。
 座布団やひざ掛けを置いて席を取ったが、開演にはまだ時間がある。人出もチラホラだ。

「コマーシャルフイルムを作るので、皆さん舞台前にもっと寄ってください」
と舞台の上から突然呼びかけられ、居合わせた人たちはみんな前に集まる。サクラ用のおひねりが配られ
「いいですか。役者が、ここは大鹿村だあ〜と見得を切ったら、おひねりを投げて、なるべく手を高く上げ拍手してください。千両役者なんていってもらえばいいですねえ」
とサクラ指導をされた。おひねりなど投げた経験はないが、ここは私たちも及ばずながら、協力をしなければならない。渡されたおひねりを投げた。が、中身が軽く舞台に届かない。それでも頭の上に手を上げ、ヤンヤの拍手をする。
「はい、ありがとうございました、もう一度撮らせてください」

まだ高校生のようなお姫様役は
「ここはどこ」
と棒読みのセリフを言うが、ドーラン、隈取りもバッチリ決めたベテランは
「ここは大鹿村だあ」
とさすがの大見得を切った。
それ今だ。中身は一円玉みたいな軽いおひねりを思いっきり投げ
「千両役者あ〜」
と手を叩く。

「ありがとうございました。もう一度お願いします」
「ええー、またあ」
 仕方がない。にわか村民の義務だ。付き合いましょう。そう思っても、五回も六回も繰り返されるとさすがにうんざりする。手も上がらなくなれば声も出ない。サクラといえども、なかなかの重労働じゃないの。良かったのか、あきらめたのか、やっとOKの合図が出て解放された。
 Yさんが風呂敷包みをあけた。三段重ねのお重に煮物、焼き物がぎっしり詰まっている。ろくべんという、岡持ちを小さくしたような弁当箱には栗ご飯が詰まっている。時代劇のお花見シーンにこんな弁当箱がでてくる。六段重ねの引き出しがついたろくべんがみっつ。地酒のケースの中には、使い捨てカイロが入っていてお酒は人肌に温まっている。心憎いような気遣いだ。こんなに量が多いのは、私たち以外に、役者たちのためだと、芝居がはねてから気がついた。
「帰ってから夕ご飯だから、あんまり食べちゃあだめよ」
と、Yさんが言う。そんな無理を言われても、ごちそうを前にしたらつい箸がすすむ。
「珍しいお弁当箱ですね、写真を撮らせてください」
と、アマチュアカメラマンや、テレビの取材者が入れ替わり立ち代りやってきた。根がお調子者の私は、すっかり我が物顔で、写真写りが良いように重箱を並べ替え、ついでに料理やお酒を勧める。他人の労作を気前良く大判振る舞いする気持ちよさ。マア、今夜はお祭りだもの、幸せはみんなで分けなければ。
 空はすっかり暮れてきたが、なかなか舞台の幕があがらない。ずいぶん時間がかかるなと思い始めた頃、民宿の奥さんがマイクで呼ばれた。午後からにわか雨があって、白波五人男で使う傘を大急ぎでしまったら、どこかにまぎれ込んで見つからないという。傘がなければ舞台の幕は開けられない。奥さんが頼まれて、急遽、自宅の玄関に下げてあった番傘を取りにいった。
 ようやく幕があく。白波五人男は新人のデビュー用定番だ。まだあどけなさの残る十六、七歳の男女が日本駄衛門や弁天小僧に扮して勢ぞろいした。パッと傘を開く。ボロボロに破れた傘に「ふるさと民宿○○屋」と大書してあった。客席がわっと笑いに包まれた。
 しかし未来の名優たちは、笑いの中でも負けずに、なんとか見得をきる。せりふまわしのたどたどしいのはご愛嬌。
 幕間にちょっと一杯、地酒六千両を頂く。
 千両役者が六人で六千両と命名したそうだ。名優がでれば、やがて七千両にも一万両にもなるとか、ならぬとか。
 ちなみに役者達は
「さあどうだあ」
と大見得を切るのが大好きなので、和事のようなシンネリ、シットリという演目は大鹿村にはないという。
 さて、いよいよ本番の幕が上がった。落ち武者の若殿に一目ぼれして、なんとか逃がそうとする渡し守の娘と、代官所に注進して小銭を稼ごうとする悪党の父親の話である。 
 切々と若殿を口説く場面で
「マサルはどうするんだあ」
とヤジが飛んだ。
 聞けば、ヒロインはスーパーのおかみさんで、マサルというのはその旦那さん。
 客席は大笑いだが、役になりきったヒロインは、そんなヤジなど歯牙にもかけない。
 若殿のふりをして、父に切られた娘は、川止めをして若殿を逃がそうとする。
 舞台が回り、瀕死の娘が、川止めの合図の太鼓をならそうと、櫓ににじり寄る。
 髪を振り乱し、右に左に、床に体を打ち付けながら、櫓ににじり寄る壮絶さ。
 圧倒的な迫力に、ここでおひねりを投げなければと、ありったけの硬貨をティッシュに包んで舞台に投げた。
 しかし、山場はまだ先だった。
 娘は櫓のはしごを、身を引きずるようにして昇っていく。最後の力をふりしぼり太鼓を叩く。
 櫓の手すりがガタリと落ち、上半身を櫓からのけぞらして息絶える。
 拍手が沸き起こり、歓声とおひねりが飛ぶ。舞台が白くなるほどおひねりが飛ぶ。
 タイミング悪くおひねりを投げたさっきの場面を、私は消しゴムで消したくなった。
 芝居というのは、見物人も見功者でなければだめなのだ。経験をつんだ見物人がリードして、舞台と客席とで、大きな夢の空間を作るものなのだ。だれも何も言わないけれど、
大鹿歌舞伎が教えてくれた。
 小悪党の父親役はバスの運転手。
 代官所に御注進して一儲けしようという嬉しさに、タコ六方というのを踏んで、花道をひきあげる。
 裃をつけた村長さんの義太夫にのり、小躍りするように、花道の中央までくる。阿波踊りのような手振りで、ずっと片足とびだ。中央で嬉しそうに一回転して、にやりと笑ってみせた。手も足も少しも止まらない。花道が長いと気絶しそうになるほど大変らしいが、観客にはそんな気配は伝わらない。あくまでふてぶてしく、小憎らしい悪党にみえた。
 となりに座っている友人と、京都・南座に人気役者の歌舞伎を見にいったことがあるが、彼女は途中で寝てしまった。その彼女が目を輝かせ、手を叩いて大喜びしている。
「歌舞伎なんてわからないと思っていたけれど、面白い、本当に面白い」
と感激している。
 舞台と客席が遠く離れ、芸術になってしまった大劇場では、味わうことの出来ない熱気のせいだろう。
 かつては大鹿村には歌舞伎が上演できる神社が十一も有ったという。現存するのは四つ。駐車スペースのある二つのお宮は春・秋の定期公演に使い、狭いお宮は一年交代で臨時公演に使っている。狭いながらも、本格的舞台だ。回り舞台はもちろん、花道もあり、二層になった義太夫の席もある。豪華な縫い取りのお姫様の衣装は、今なら二百万円でも作れないらしい。二百数十年の年月を受け継いできた村の財産だ。
 村人たちの誇りは、その伝統の灯を一度も途切れさせずに続けてきたことにある。水野忠邦の天保の改革で、各地の芸能が禁止された中でも屈せず上演し、飯田の代官所に投獄されたとか、太平洋戦争の時も、村長さんが用事を作り、村の駐在さんを引き止めている間に上演してしまったとか、そんな記録が村史にあるとYさんが説明してくれた。
 芝居の興奮を引きずったまま、宿に戻った。
 いろりの切ってある板敷きの食堂に、心づくしの料理が並んでいる。豆腐も豆乳ヨーグルトもすべて奥さんの手作りでおいしい。玄関に広げられていたキノコも料理されていた。
 となりの卓の三人連れが採ってきたキノコだという。飯田から毎年キノコ採りにくる常連客のキノコをお相伴できて、またまた幸運。きくらげのような黒いキノコは岩茸だそうだ。私は、キノコは不案内だが、岩茸は文字通り険しい岩場に生えるそうで、このキノコもロープで下降しながら採ったという。そんな貴重品を、行きずりの私たちに惜しげもなく食べさせてくれるおおらかさ。いい人たちだなあ。
「これが岩茸! 一度でいいから食べたいと思っていた幻の茸。感激だわ。うれしいわ」
と、友人はまた大喜びをしていた。
 伊那谷が気にいって通い詰め、ここを定宿にしている神戸の写真家も泊り合わせた。話がはずみ、
「この人たち、好きだわあ」
と、自分の写真集をプレゼントしてくれた。
 ページを繰ってゆくと、点在するかくれ里の祭りの写真があった。こんな山里のひとつひとつに、多彩な祭りがあった。僻地だからこそ祭りは人擦れすることもなく、原始の祈りに満ちた力強さにあふれている。
 写真家の目は、山里の生活を的確に切り取っていた。
 Yさん夫婦も東京からの移住者だ。若い頃は、二人とも劇団に所属していたという話だ。大鹿村が気に入って通って来るだけでは飽き足らず、とうとう住み着いてしまった。奥さんは案内所で働き、ご主人は、ヤナギドジョウというユーモラスな名前で、村の風景の切り絵を作っている。悠々自適、大鹿の村に溶け込んだ幸せな夫婦だ。
 大鹿村はどうしてこんなに人を呼び寄せるのだろう。僻地なのに、暗い閉鎖性を感じない。
 諏訪から杖突峠を越え、秋葉街道を浜名湖まで抜ける難路上の、オアシスのような村だから、もてなし上手になったのだろうか。
 秋葉神社は秋葉街道を静岡県に入った天竜川沿いにある。火除けの神として、今も参拝者が絶えないが、江戸時代の御祭礼といえば諏訪から静岡一帯の人々を集め、大変賑わった。その御祭礼目当てに旅芸人が行き来する。
途中の大鹿村で公演をしていく。そんな芸人達の芝居を楽しみにし、見よう見まねで始めたのが、大鹿歌舞伎の始まりだと言われている。
 芝居好きで、もてなし好き、陽気な村人の気風が大勢の人をここに呼び集めるに違いない。
 翌日は村の博物館に寄った。中央構造線という茨城県から熊本県に抜ける大きな断層が、大鹿村で露呈している。その地質の展示館と村の古民具や歌舞伎の資料などが展示してある二館がある。小さな村に立派な博物館である。地層や石など何の興味もなかったが、入館してみるとこれが面白い。
 学芸員が、展示物を素人に解かるように説明してくれた。
 南アルプスの大きなジオラマが断層に沿って動く。ランドサットから撮った写真には、まっすぐな中央構造線がはっきり写っている。和歌山の吉野川と淡路島の南端と四国の吉野川が一直線上にあった。
 友人が
「だから、四国も和歌山もおなじ吉野川なんだ」
と納得したように言った。二本の向かい合った川が同じ名前なのはそういうことだったのか? 確信はないが、それが正しいような気がする。ランドサットもない時代、二本の川が一直線上にあると、どうして先祖は知ったのだろう。先人の知恵の不思議さ。
 私たちは自分の足元も知らなすぎる。
 思わぬ時間をつぶし、となりのろくべん館に入った。こちらは民具館だ。村で使用されていたろくべんが、当然ながら展示してある。展示品の中に、おとなが三人ほど入れそうな竹篭があった。
「これが、ウェストンが登山の荷物運びに使った竹篭です。現存するのはこれだけです。上高地のウェストン祭で貸して欲しいと要望があるのですが、所有者が許可せず、ここだけでしか見られません」
と、館長さんが胸を張る。
 ウォルター・ウェストンは、明冶二十一年に来日したイギリス人宣教師で、飛騨や木曾の山脈を日本アルプスと呼び、近代アルピニズムを日本にもたらした人だ。
 ツィードのジャケットにゲートルを巻いたイギリス人紳士の周りに半裸の人夫が立っている写真を見たことがある。
 明冶二十一年といえば列強欧米に追いつけと日本がシャカリキになっていた時代だ。農村は貧しく、農夫はふんどしひとつで働いていた。
 世界の強国、大英帝国の宣教師は、風呂桶より大きな篭に荷物を詰めて、人夫に担がせ登山をしていたのか。まるで大名行列のようだ。豪勢なものである。
 今、ヒマラヤの頂きを目指す日本登山隊は、ヘリコプター数台分の荷物をポーターに担がせ、山中をいく。そのポーターたちと、百年前の、日本の農民が重なる。
 時の流れ、めぐり合わせの不思議さを思いながら篭を見ていた。
 しかし、どうも変だ。明冶二十年代の篭がこんなにきれいだろうか。竹が変色していない。つやがある。もちろん大事に手入れはしているだろうが、百年たっても竹はこんなにきれいなものなのか?
 滔滔と説明する館長さんに、私はその疑問をぶつけることが出来なかった。
 そうして、館長さんの顔を見つめていて、はっと気づいた。
 この顔。この眉毛。夕べ確かに舞台の上で見た。眉毛怪人とあだ名された社会党の元総理大臣より、立派で濃く長い眉毛は見間違えようがない。
 上手に化けたタヌキの尻尾がチョロリと覗いたような。ゆうべが化けたのか、今日が化けているのか。
 大鹿の人たちは、二つの人生を同時に生きているのかもしれない。
 大鹿の秋は美しい。山が紅葉に燃える。
 春も美しい。村中がお花畑のようになる。
「あの家は公園かなにか?花がきれいで」
と、Yさんに聞くと
「普通の家よ。きれいにしていたら道ゆく人が楽しいでしょ」
と返事が返ってきた。
 そんな村だから、つい大鹿に足が向いて、もう三度も通ってしまった。
 桃源郷はやはり山奥にあった。


評価のポイント
大鹿村の様子、地域の人々が伝統芸能である大鹿歌舞伎を大事に守っている点、そして歌舞伎の開始から終わりまでを臨場感に富み、そして分かり易く表現している。

受賞の言葉
このたびはありがとうございました。
 私は文章の書き方を、特に学んだこともなく、ただ好きだから、というだけで旅の思い出を書き留めて参りました。自己評価は、素人の遊びと思っておりましたので、思いがけない賞を頂いて、本人が一番ビックリしております。
 こんなに大きな賞をいただけたのも大鹿村の楽しい一夜があったからこそです。村の人たちの芝居に対する熱い思い、通りがかりの者でも、優しく受け入れてくれる広い心が、私に受賞作を書かせてくれました。 大鹿の方々に深く感謝しております。
 最後になりましたが、審査員の先生方、JTBの皆様方、ほんとうにありがとうございました。

妻鹿 弘子

※賞の名称・社名・肩書き等は取材当時のものです。